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    [1,"城之内遺跡","岐阜市長良西後町","岐阜地区","1986","古墳時代・戦国時代","弥生時代末から古墳時代初めの遺物がまとまって出土したことから、この時期に集落が営まれていたことが想定できます。古代は「美濃国」刻印須恵器（「みのこく」こくいんすえき）や硯（すずり）が出土しました。中世は、井戸や区画溝を確認したことから、屋敷跡の存在が想定され、居住城があった可能性が考えられます。","無番","",136.4655103,35.26480563],
    [2,"はいづめ遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1986・1987","縄文時代・江戸時代","縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、居住域と墓域として利用されたことがわかりました。土器を使って埋葬した墓（土器棺墓（どきかんぼ））が16基見つかりました。","無番","",136.2611217,35.40545347],
    [3,"小の原遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1987・1988","縄文時代（早期〜前期）","縄文時代早期〜前期の集石遺構12基を確認し、草創期〜前期末の遺物が多数出土しました。","無番","",136.2610337,35.41012916],
    [4,"戸入障子暮遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1989","鎌倉時代","鎌倉時代の墓１基から、埋納された古瀬戸瓶子（こせとへいし）が出土しました。その内部には人骨も確認しました。","無番","",136.2641423,35.4058452],
    [5,"嘉念坊寺ヶ野道場跡","大野郡白川村","飛騨地区","1997","なし","中世の道場跡に関する遺構・遺物は発見されませんでしたが、縄文時代の打製石斧（だせいせきふ）が出土しました。","無番","",136.5404211,36.15412003],
    [6,"史跡高山陣屋跡","高山市八軒町１丁目","飛騨地区","1991","江戸時代","史跡高山陣屋跡の第３次復旧整備事業に向けての遺構確認をねらいとしておこなわれた発掘調査でした。残念ながら、遺構・遺物の検出状況は良好ではありませんでしたが、江戸時代の生活をしのばせる遺物が見つかりました。","1","",137.15266,36.08231145],
    [7,"門坂シズマ遺跡","下呂市小坂町","飛騨地区","1991","縄文時代","縄文時代中期の北陸や関西で作られた土器が出土し、周辺地域との文化のつながりが分かりました。","2","",137.1538297,35.58113857],
    [8,"城之内遺跡","岐阜市長良西後町","岐阜地区","1991","古墳時代・古代・中世","土岐氏の居館であった「枝広館」に隣り合った場所の発掘調査です。","3","",136.4655122,35.26496023],
    [9,"宮下遺跡","郡上市美並町山田","美濃地区","1991","縄文時代","尾根上にあり縄文時代後期・晩期の集落の先端部分を調査しました。縄文時代後期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）２軒を確認しました。","4","",136.5712109,35.4042005],
    [10,"下開田村平遺跡","揖斐郡揖斐川町開田","西濃地区","1990","縄文時代（早期・中期・後期・晩期）・古代〜近現代","主要な遺構として縄文時代の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）１軒・焼礫集積遺構（しょうれきしゅうせきいこう）４基などを確認しました。","5","",136.2928404,35.4138055],
    [11,"追分遺跡","揖斐郡揖斐川町開田","西濃地区","1989・1990","縄文時代（早期・後期・晩期）・古代〜近世","縄文土器240点、石器類187点などが遺物包含層から出土しました。","5","",136.281049,35.41419037],
    [12,"深戸遺跡","郡上市美並町三戸","美濃地区","1991","中世・近世","中近世の集落跡で、礎石建物の礎石、穴４基、柱穴等を確認しました。出土遺物には織部（おりべ）や黄瀬戸（きせと）の碗・皿・向付（むこうづけ）、中国製陶磁器などがあります。","6","",136.5712314,35.41115761],
    [13,"鶴尾山城跡","郡上市美並町","美濃地区","1991","中世（戦国時代）","築城時期は1550年代で16世紀末に廃城になったと考えられる城跡です。小規模ながら一定の規格のもとに造られた防御機能の高い城です。","6","",136.5743443,35.39264568],
    [14,"藤原遺跡","高山市久々野町渚","飛騨地区","1992","縄文時代（早期・前期・中期・後期）","器形の復元ができた土器では、粕畑式（かすばたしき）などの、いわゆる条痕文系（じょうこんもんけい）のものがありました。","7","",137.1731868,36.00221476],
    [15,"深沼遺跡","高山市国府町西門前","飛騨地区","1992","古代","当時、県内の発掘調査としては調査例がほとんどなかった水田遺構が確認されました。畦畔を伴う水田や、古代における小区画の水田が確認できました。","8","",137.1428551,36.13236299],
    [16,"元三ヶ根古墳群","多治見市明和町","東濃地区","1992","古墳時代（後期）","１・３〜６号墳を調査しました。６号墳を除く４基の主体部は横穴式石室で、６世紀中頃から７世紀前後にかけて順次築造されています。出土遺物には須恵器（すえき）、土師器（はじき）などの土器、鉄鏃（てつぞく）、刀子（とうす）、耳環（じかん）などの金属製品があり、特に３号墳では石室内から直刀（ちょくとう）２本、石室奥壁際から鉄鏃（てつぞく）16本、石室前方から馬具１点が出土し、貴重な資料を得ることができました。","9","",137.0555679,35.2114576],
    [17,"白土原９・１０号古窯跡","多治見市根本町","東濃地区","1992","古代","平安時代の窯跡です。発掘区内では窯体や灰原（はいばら）を確認できませんでしたが、灰釉陶器（かいゆうとうき）の破片が出土しました。","9","",137.0510173,35.21234131],
    [18,"中筬遺跡","郡上市白鳥町阿多岐","美濃地区","1992","縄文時代","遺構としては炭化物が集中する場所を確認しましたが、性格不明で、遺物も石器の未製品１点、剥片（はくへん）１点が出土したのみでした。表面採集資料の中には、縄文時代中期の土器片に混じって数点の縄文時代早期の土器片があります。","10","",136.5451149,35.54573129],
    [19,"戸入村平遺跡","揖斐郡揖斐川町戸入","西濃地区","1988・1989・1998","縄文時代（中期・後期・晩期）","縄文時代の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）18軒、土器棺墓13基、柱穴や穴1431基などを確認しました。また、出土遺物では、縄文土器約20万点と石器約1万8千点が出土しています。\n縄文時代中期では南向きの段丘面で川に向かって２〜３軒の住居を営んでいました。後・晩期の土器棺墓などの遺構を含めた全体で観察すると、調査区内西側中央に遺構がほとんどない空白地が認められます。この中期〜晩期までの長期間に空白地を囲むように環状集落が形成されていたと考えられています。","11・64","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/3002.html",136.2627238,35.40515626],
    [20,"長吉遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1991","縄文時代（早・中・晩期）・中世・近世","縄文時代中期の遺物が少量出土しましたが、それ以外は基本的には早期後半と晩期後半の２時期に形成された遺跡であることが、遺物から明らかになりました。","12","",136.2602558,35.43445785],
    [21,"普賢寺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1991","縄文時代（晩期）・中世・近世","縄文土器が、調査前に拾われたものも含めて56点出土しましたが、摩耗が著しくすり減った小さい破片ばかりでした。すべて遺物包含層からの出土でした。","12","",136.2912056,35.41422559],
    [22,"尾崎遺跡","美濃加茂市蜂屋町上蜂屋","可茂地区","1992","縄文時代（晩期）〜中世","弥生時代中期〜奈良時代にかけての竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）約30軒、中世の建物跡・区画溝などを確認しました。","13","",137.0123931,35.27205292],
    [23,"仲迫間遺跡","美濃加茂市田島町","可茂地区","1993","縄文時代(中期〜晩期）・弥生時代・古墳時代・奈良時代・平安時代・中世・近世・近代・現代","穴や溝を確認しました。また近世後半と近現代の時期の地震痕（じしんこん）を確認しました。出土遺物の中には「美濃国」刻印須恵器（「みのこく」こくいんすえき）があり、注目されます。","14","",137.0145818,35.26530514],
    [24,"陰地遺跡","加茂郡東白川村大字越原字陰地","可茂地区","1993","縄文時代（早期〜晩期）・弥生時代（中期）・中世","幅約10m×長さ約150mの調査区域内に縄文時代中期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）２軒・中世の穴６基などを確認しました。","15","",137.2118119,35.40046952],
    [25,"荒城神社遺跡","高山市国府町宮地","飛騨地区","1993","縄文時代(中期〜晩期)","遺構では、穴群と住居跡を確認することができました。栗の炭化物が出土し、貯蔵穴であることが判明した小穴もありましたが、他の多くの小穴は、その性格を解明することができませんでした。","16","",137.1532452,36.13093079],
    [26,"諏訪洞砦跡","高山市国府町名張","飛騨地区","1993","縄文時代・中世","整地作業を施した曲輪（くるわ）と思われる遺構が4ヶ所確認されました。土が崩れるのを防ぐ役割を果たすと思われる石列遺構や性格不明の配石遺構が確認されたのみで、建物跡は確認できませんでした。遺物は縄文土器片15点と打製石斧（だせいせきふ）10点が出土しました。","17","",137.1220222,36.1243265],
    [27,"阿弥陀堂遺跡","下呂市小坂町赤沼田","飛騨地区","1993","縄文時代（晩期）・弥生時代（前期）","遺構は検出されていませんが、飛騨地方の縄文時代晩期から弥生時代にかけての、阿弥陀堂式と呼ばれてきた縄文土器と遠賀川系（おんががわけい）及び条痕文系（じょうこんもんけい）土器が出土しました。","18","",137.1744643,35.55544883],
    [28,"深作裏垣内遺跡","下呂市小坂町赤沼田","飛騨地区","1993","縄文時代（中期・後期）","遺構は穴68基、小穴142基、立石（りっせき）３基、配石遺構１基、溝状遺構１条、竪穴状遺構２基が発見されています。遺物は縄文時代中期から後期にかけての土器片を中心に少量出土しました。","18","",137.1801319,35.55527529],
    [29,"岡本山横穴墓","可児市久々利垣下入会岡本","可茂地区","1994","古墳時代","１・２号横穴墓を調査しました。このうち２号横穴墓は保存状態が良好で、入り口の両側の壁には横穴の構造に関連すると考えられる加工が見つかりました。出土遺物はありませんが、古墳時代後期の横穴墓と考えられます。","19","",137.0558675,35.24356051],
    [30,"岡前遺跡","飛騨市古川町杉崎御構","飛騨地区","1994","縄文時代・古代","縄文時代の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）７軒、平安時代の竪穴住居跡１軒を発見しました。縄文土器は、早期から晩期までありますが、中期後半が主です。須恵器（すえき）は８世紀のものが多く、和同開珎（わどうかいちん）は飛騨では初の出土になりました。","20","",137.0913632,36.15366528],
    [31,"底津遺跡","関市洞戸栗原","美濃地区","1993","縄文時代（早期後半〜後期前半）・中世","縄文時代中期後半〜後期前半にかけての集落を確認しました。また竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）内より注口部（ちゅうこうぶ）をもつ異形土器が出土しています。中世の土坑墓（どこうぼ）からは刀子（とうす）と山茶碗（やまぢゃわん）の皿が２点出土しています。","21","",136.4924558,35.37097148],
    [32,"飛瀬遺跡","関市洞戸飛瀬","美濃地区","1993・1994","縄文時代（早期前半〜中期）・中世","縄文時代早期の押型文（おしがたもん）のある良好な土器が出土し、同じ土層からは表裏縄文土器も出土しました。","21","",136.4917621,35.3709094],
    [33,"勝更白山神社周辺遺跡","郡上市八幡町有坂","美濃地区","1992・1993","縄文時代（中期末〜晩期）・中世〜近世","主に縄文時代中期末〜晩期の土器が見つかりました。石製土掘具（せきせいつちほりぐ）が850点出土していますが、他の石器はほとんど見られません。長期間にわたる採集地であったと考えられます。","22","",136.5632776,35.45113241],
    [34,"西乙原遺跡","郡上市八幡町西乙原","美濃地区","1992","縄文時代・近世","中近世の集石土坑（どこう）・土坑墓が確認されています。石製土掘具（せきせいつちほりぐ）が77点出土しており、礫（れき）の多い場所で使用されたと思われる刃部の潰れがみられました。","22","",136.5632593,35.42220079],
    [35,"西ヶ洞遺跡","郡上市白鳥町中津屋","美濃地区","1993","縄文時代","縄文時代早期の穴７基を確認しました。\n押型文土器（おしがたもんどき）、二上山（大阪と奈良の県境）産サヌカイトの剥片（はくへん）霧ヶ峰・和田峠（長野県）産黒曜石の剥片などが出土しました。","23","",136.5216841,35.51200208],
    [36,"西ヶ洞古墳群","郡上市白鳥町中津屋","美濃地区","1993","古墳時代","５世紀末から７世紀までの古墳群７基中５基を調査しました。３〜７号墳は木棺直葬（もっかんじきそう）の古墳です。３号墳は５世紀末〜６世紀初頭、４〜７号墳は６世紀前半と考えられます。６、７号墳は約１mの直刀（ちょくとう）を副葬しています。","23","",136.5214604,35.51259394],
    [37,"下巾上遺跡","美濃市松森下巾上","美濃地区","1994","鎌倉時代・室町時代・江戸時代","中世〜近世にかけての集落跡を確認しました。近世の遺構面では穴や井戸などを確認しましたが、建物は１棟しか確認されませんでした。\n中世の遺構面では穴、柵列（さくれつ）、建物12棟などとともに集石墓、便所と想定される遺構が確認され、集落の空間配置を考える上で貴重な資料といえます。","24","",136.5428263,35.31338422],
    [38,"上開田村平遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1992","縄文時代・中世末葉・中近世","縄文時代中期終わり頃の土器がまとまって出土しました。径約４mの焼礫集積遺構（しょうれきしゅうせきいこう）を確認しました。他に、さし銭83枚や中世では積石塚（つみいしづか）、厠跡（かわやあと）、近現代ではホーロ、カマバなどの民俗的資料となる遺構も確認しました。","25","",136.28301,35.41503834],
    [39,"荒尾南遺跡","大垣市桧町","西濃地区","1994","弥生時代〜古墳時代","弥生時代に流れていた河川跡とその岸辺に造られた墓（方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ））を確認しました。方形周溝墓からは82本の櫂（かい）を持つ大型船や帆掛け船を描いた線刻絵画土器が見つかりました。河川跡からは地震によると思われる杭（くい）の折れや断裂が見つかりました。また、漆塗木製品（用途不明）、遠賀川系（おんががわけい）土器が見つかりました。","26","",136.3501761,35.22040372],
    [40,"塚遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1991","縄文時代（中〜晩期）・古代・近世","縄文時代中期〜後期にかけての竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）６軒や集石遺構８基などを確認しました。遺物でも縄文土器・石器が多数出土しました。","27","",136.2547076,35.44078785],
    [41,"山手宮前遺跡","揖斐郡揖斐川町山手","西濃地区","1992・1993","縄文時代（中期後葉）・中世・近世","縄文時代中期終わり頃の集落遺跡です。第６号住居跡から土器がまとまって出土しました。出土した切目石錘（きりめせきすい）の中には「糸巻きの帯状痕跡」のあるものが多数確認できました。江戸時代のさし銭81枚も出土しました。","28","",136.2742576,35.42124329],
    [42,"西田遺跡","高山市丹生川村折敷地","飛騨地区","1993・1994","縄文時代・中世・近世","縄文時代早期〜前期はじめ頃、中期、後期〜晩期、古代以降の４つの時期に遺構・遺物が集中しました。遺構は住居跡、焼礫集積遺構（しょうれきしゅうせきいこう）、集石遺構、土坑（どこう）、土器集中区、建物跡を確認しました。集石遺構のなかには晩期の石組石棺墓１基があります。ここからは３個の土玉（どだま）、赤色顔料のかたまりが出土しています。出土遺物は約20万点を数え、大半が土器片ですが、石器、土製品、石製品なども出土しています。","29","",137.2234371,36.13034642],
    [43,"堀田城之内遺跡","岐阜市長良堀田","岐阜地区","1994・1995","古墳時代〜近世","古墳時代〜古代の住居を多数発見しました。\nまた、戦国時代の守護の館の周りにある溝がみつかりました。","30","",136.4707266,35.26447969],
    [44,"小関御祭田遺跡","不破郡関ヶ原町関ヶ原","西濃地区","1996","縄文時代","縄文時代中期終わり頃の土器が主に出土しました。石器はチャート製が主で、三日月形で打製の異形石器１点、滑石製（かっせきせい）の全面が磨かれた鏡の石製模造品１点が出土しています。","31","",136.2700817,35.22285822],
    [45,"カクシクレ遺跡","高山市丹生川村折敷地","飛騨地区","1995","縄文時代・古代","Ａ地点では、竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）は縄文時代中期後半のもの１軒を確認しました。また、縄文時代晩期後半の水さらし場遺構を確認しました。水さらし場遺構は段丘崖の湧水地点から小河川に作られた木組みの遺構で、木の実を水洗したり、あく抜き処理したり、虫殺し処理したりする場所と思われます。\n縄文時代晩期後半の土器が集中的に出土しました。\nＢ地点では、縄文時代中期初め頃および後期から晩期にかけての遺物が出土しました。\nＣ地点では、縄文時代後期から晩期にかけての遺物が出土し、古代の用途不明の巨大炭化木を確認しました。","32","",137.2242842,36.12599477],
    [46,"与島古墳群","高山市上切町与島","飛騨地区","1996","古墳時代","３基とも横穴式石室をもつ円墳で、６号古墳は新たに発見された古墳です。\nいずれも７世紀中頃のもので３号・４号古墳は、両袖式の横穴式石室をもっています。","33","",137.133062,36.10052038],
    [47,"大沢13号古窯跡","多治見市大沢町","東濃地区","1996","鎌倉時代","鎌倉時代の古窯跡で、窯体と灰原（はいばら）、穴などを確認し、山茶碗（やまぢゃわん）、小皿、坏（つき）、瓶子（へいし）、窯道具などが出土しました。","34","",137.0345156,35.20223137],
    [48,"北小木神明洞１号炭焼窯跡","多治見市北小木町神明洞","東濃地区","1996","室町時代","室町時代の炭焼窯跡で、窯体と灰原を確認し、山茶碗（やまぢゃわん）が出土しました。","34","",137.0322998,35.20188169],
    [49,"北小木大谷洞28号古窯跡","多治見市北小木町大谷洞","東濃地区","1996","鎌倉時代","鎌倉時代から室町時代の窯跡で、窯体の一部を確認し、山茶碗（やまぢゃわん）が出土しました。","34","",137.0327398,35.20196796],
    [50,"北小木大谷洞29・30号窯跡","多治見市北小木町大谷洞","東濃地区","1995","鎌倉時代〜室町時代","鎌倉時代から室町時代の窯跡で、窯体と灰原（はいばら）、穴などを確認し、山茶碗（やまぢゃわん）、小皿、仏具、小壺、窯道具などが出土しました。","34","",137.0342196,35.20217101],
    [51,"磯谷口遺跡","揖斐郡揖斐川町山手","西濃地区","1990","縄文時代・平安時代・中世・近世","遺構では穴１基、遺物では縄文土器465点、石器1161点、須恵器（すえき）・灰釉陶器（かいゆうとうき）・緑釉陶器（りょくゆうとうき）・山茶碗（やまぢゃわん）・古瀬戸などが140点、銭貨２枚が出土しました。\n唯一の遺構である穴からは、骨片や炭化物とともに内面が黒色で丁寧に仕上げた土器が１点出土しています。このことから、この穴は墓の可能性が考えられます。","35","",136.2732361,35.4236841],
    [52,"寺屋敷遺跡","揖斐郡揖斐川町山手","西濃地区","1993~1995","旧石器時代・縄文時代・平安時代","旧石器時代のナイフ形石器、スクレイパーなどが出土しました。石材はチャート製が多いこと、剥片（はくへん）が１ヶ所から4000点以上発見されたこと、製品の出土が少ないことという特徴が認められます。このことから、生産地に近い場所の製作地か、石材供給地であったのかもしれません。\n平安時代では礎石建物跡を確認しました。この建物奥からは焼礫集積遺構（しょうれきしゅうせきいこう）が見つかり、碗、皿、多口瓶（たこうへい）、仏像の螺髪（らほつ）が出土しました。これらから建物は仏像を安置した場所であり、護摩（ごま）が焚かれた可能性が考えられます。","35","",136.2726511,35.4243675],
    [53,"上原遺跡","揖斐郡揖斐川町徳山","西濃地区","1990~1993・1994~1996","縄文時代（早期〜晩期）・弥生時代（前期〜中期）・古代〜近世","縄文時代の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）14軒、炉跡９基、土器棺墓７基、配石遺構51基、奈良時代の礫集積遺構（れきしゅうせきいこう）１基、平安時代の建物跡１棟などを発見しました。遺物では縄文時代早期〜晩期にかけての土器や石器類が多数出土し、他にも弥生土器、灰釉陶器（かいゆうとうき）、青磁、山茶碗（やまぢゃわん）などが出土しました。","36・54","",136.280925,35.4158702],
    [54,"今宿遺跡","大垣市今宿","西濃地区","1993~1995","弥生時代〜古墳時代、中世、近世〜現代","弥生時代から現代の堀田に至る水田の跡が、何層にも積み重なって見つかりました。弥生時代の終わりから古墳時代前期には集落の端に水路を掘り、水田に水を流し込んでいた様子がわかりました。水路の脇には、ヤマグワの木が植えられていました。古墳時代前期の水田跡には、農作業を行った足跡が、一万歩近くも見つかっています。","37","",136.3816464,35.22032664],
    [55,"西屋敷遺跡","関市池尻西屋敷","美濃地区","1996","鎌倉時代〜江戸時代","鎌倉時代後期から室町時代後期の水田遺構と室町時代後期から江戸時代の水田遺構を確認しました。","38","",136.5254537,35.30400204],
    [56,"高見遺跡","関市洞戸高見","美濃地区","1997","縄文時代（中期前葉〜後期前葉）・中世","縄文時代後期の住居跡や穴、集石遺構を確認しました。","40","",136.4920384,35.38377077],
    [57,"阿多粕遺跡","高山市久々野町阿多粕","飛騨地区","1997","縄文時代","遺構は見つかりませんでした。遺物では、縄文土器が、早期から晩期までありますが、後期中頃が主体となります。石器類では、石鏃（せきぞく）が比較的多く、尖頭器（せんとうき）が１点出土しました。","41","",137.1703333,35.59239911],
    [58,"湯屋遺跡","下呂市小坂町湯屋","飛騨地区","1997","縄文時代・近世","遺構では、たくさんの穴が見つかりました。遺物は縄文土器は中期から晩期までありますが、中期後半及び後期が主体です。特に後期終わり頃の瘤（こぶ）付土器は、飛騨地方での出土例がほとんど知られていないため、注目されます。また、下呂石の剥片（はくへん）類が大量に出土しました。","42","",137.1847907,35.5439681],
    [59,"沖田遺跡","下呂市萩原町西上田","飛騨地区","1997","縄文時代（中期）・近世","縄文時代中期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）２軒と近世の建物跡１棟が発見されました。","43","",137.1348922,35.5024234],
    [60,"牛垣内遺跡","高山市丹生川村折敷地","飛騨地区","1994・1995","縄文時代・平安時代","竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）は、縄文時代中期のものが９軒、平安時代のものが１軒検出されました。平安時代の住居跡は、石組みのかまどとそれに伴う煙道を確認しました。また、住居跡内からは、墨書（ぼくしょ）された灰釉陶器（かいゆうとうき）が出土しました。\nこのほかに遺跡内からは縄文時代早期の押型文土器（おしがたもんどき）、中期から後晩期の土器が多く出土しています。","44","",137.2228728,36.13110895],
    [61,"丸山遺跡","高山市丹生川村折敷地","飛騨地区","1996","縄文時代","縄文時代中期はじめ頃のまとまった土器群が出土しました。また、墓と推定される穴からは琥珀（こはく）玉製品が出土しました。出土状態は７個が数珠状に連なっていました。それぞれの琥珀には穴があいていました。紐のようなもの通し、おそらくネックレスのように使っていたと考えられます。琥珀は、飛騨地方では産出が確認されていないことから、遠くから運ばれてきたものと思われます。","45","",137.2226008,36.13043983],
    [62,"たのもと遺跡","高山市丹生川折敷地","飛騨地区","1996","縄文時代・平安時代","縄文時代後期はじめ頃および晩期の遺構や遺物が中心の遺跡です。発見された竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）は縄文後期はじめ頃のものと考えられます。","46","",137.2253429,36.13024674],
    [63,"片山城跡","揖斐郡池田町片山字城ヶ谷","西濃地区","1996","室町時代","片山城は天正元年につくられた山城です。発掘調査では遺構は確認できませんでしたが、主に山茶碗（やまぢゃわん）、青磁、古瀬戸〜大窯製品、連房製品、常滑の瓶、中国銅銭、土鈴（どれい）などが出土しています。","47","",136.3325698,35.24432268],
    [64,"城ヶ谷７号墳","揖斐郡池田町片山","西濃地区","1996","古墳時代","古墳時代後期の無袖式（むそでしき）横穴式石室をもつ円墳です。石室内から須恵器（すえき）の坏身（つきみ）が出土しています。","47","",136.3331203,35.2450843],
    [65,"諸洞遺跡","美濃加茂市蜂屋町","可茂地区","1992","中近世","３基並んだ井戸を確認し、そのうち１つからは、最下層より近世陶磁器が完形で出土しました。","48","",137.0050949,35.28371021],
    [66,"大坪遺跡","美濃加茂市蜂屋町","可茂地区","1998","中近世","柱材の根元部分が残っていたり、根石が敷かれていたりする柱の穴を多く確認し、建物の下部構造を知る上で良好な資料を得ました。","48","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2853.html",137.0132745,35.28182213],
    [67,"ホヤノ木古墳","中津川市坂下町","東濃地区","1998","古墳時代・縄文時代","直径９〜10.4ｍの円墳で、主体部は無袖式横穴式石室（むそでしきよこあなしきせきしつ）です。戦後の発掘時に直刀（ちょくとう）や７世紀はじめ頃の須恵器（すえき）が出土しています。また、発掘区内から多数の打製石斧（だせいせきふ）が出土したことから、縄文時代の植物食料採集地であった可能性が考えられます。","49","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1526.html",137.3150803,35.33195976],
    [68,"土岐口西山古窯跡","土岐市土岐津町土岐口","東濃地区","1998","古代","古窯跡からは、平安時代の碗や皿、瓶、壺などの灰釉陶器(かいゆうとうき）が出土しました。","50","",137.1008943,35.20266194],
    [69,"市場遺跡","揖斐郡池田町片山字市場","西濃地区","1998","縄文時代","柱穴22基、穴５基、溝２条を確認しました。そのうち柱穴１基から縄文時代早期の土器が出土しています。他に縄文土器、弥生土器、須恵器（すえき）、山茶碗（やまぢゃわん）、中近世陶磁器、石器が出土しています。","51","",136.3332816,35.25099546],
    [70,"南高野古墳","揖斐郡池田町片山字南高野","西濃地区","1996","古墳時代","南高野古墳は、古墳時代後期の右片袖式（みぎかたそでしき）横穴式石室をもつ直径25mの円墳です。玄室（げんしつ）が崩壊していたため盗掘をまぬがれ馬具、太刀（たち）、耳環（じかん）、刀子（とうす）、大型器台、無蓋（むがい）高坏など多くの遺物が出土しました。また、玄室内が赤彩されていたことが判明しました。","51","",136.3404605,35.25159086],
    [71,"二ノ井遺跡","揖斐郡池田町片山字南高野","西濃地区","1995・1996","室町時代","15世紀後半の室町時代ものと思われる中世墓から、山茶碗（やまぢゃわん）と土師器皿（はじきざら）、磁器、銭貨が出土しました。隣接する南高野古墳に関連する溝や高畑遺跡の古代寺院に関連する区画溝を確認しています。","51","",136.3403742,35.25156035],
    [72,"船山北古墳群・船山北古窯跡群・船山北遺跡","各務ヶ原市須衛町","岐阜地区","1993~1995","古墳時代〜近世","古墳時代終末期の古墳群を調査しました。５基の古窯跡の１つから「建久五年（1192）」の年号をもつ資料が出土しました。","52","",136.5333343,35.25401715],
    [73,"宮上遺跡","揖斐郡揖斐川町春日六合","西濃地区","1996","縄文時代・鎌倉時代・室町時代","穴３基、柱穴12基、土器集中区１ヶ所を確認しました。出土遺物は縄文土器約160点と石器約60点、古代以降の土器50点あまりが出土しました。なお、土器集中区は縄文時代中期終わり頃のものでした。","53","",136.2923941,35.28257733],
    [74,"千日遺跡","揖斐郡揖斐川町春日美束","西濃地区","1996","縄文時代・室町時代","遺構は確認されませんでしたが、縄文時代早期の条痕文系土器（じょうこんもんけいどき）、古代以降では土師器（はじき）、山茶碗（やまぢゃわん）、古瀬戸などの土器が出土しました。","53","",136.2703638,35.29368249],
    [75,"梨子谷遺跡","揖斐郡揖斐川町春日美束","西濃地区","1996","縄文時代・室町時代","縄文時代早期の集石遺構と押型文土器（おしがたもんどき）・条痕文系土器（じょうこんもんけいどき）を発見しました。また、調査区内には地震痕（じしんこん）が確認されています。","53","",136.2545074,35.28564155],
    [76,"細野遺跡","揖斐郡揖斐川町春日美束","西濃地区","1996","縄文時代・室町時代","縄文時代の集石遺構２基と早期の土器集中区を確認しました。集石遺構からは、焼けた石と炭が出土しました。","53","",136.2541964,35.28521038],
    [77,"いんべ遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","1990","縄文時代（早期・晩期）","縄文時代早期の焼礫集積遺構（しょうれきしゅうせきいこう）や、晩期の土器棺墓、また詳細な時期は不明ですが縄文時代の配石土坑（はいせきどこう）が発見されました。また縄文時代の土器、石器がまとまって出土し、特に凹石類（くぼみいしるい）が多数出土しました。水銀朱も確認しました。","55","",136.2420948,35.40533583],
    [78,"高畑遺跡","揖斐郡池田町片山字高畑","西濃地区","1995","弥生時代・奈良時代・中世","８世紀初頭の軒丸瓦（のきまるがわら）や、三彩（さんさい）、浄瓶（じょうへい）、鉄鉢（てっぱつ）、硯（すずり）、刀子（とうす）などの出土遺物より寺院跡と考えられます。区画のための柵跡（さくあと）からおそらく７世紀末につくられ、築地塀（ついじべい）と隣接する溝から出土した多量の瓦から８世紀後半にもっとも栄えたと思われます。９世紀には土石流や焼失の被害にも遭いましたが、16世紀まで続いた寺院です。","56","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2991.html",136.3400442,35.25150722],
    [79,"南整理遺跡","不破郡関ヶ原町","西濃地区","1998・1999","古代〜中世・近世","古代〜中世の集落跡と道路状遺構を確認し、集落内の建物と道路の方向が一致することが判明しました。また、近世中山道に伴う遺構を確認しました。","57","",136.3019784,35.22165593],
    [80,"顔戸南遺跡","可児郡御嵩町顔戸","可茂地区","1997","古墳時代・古代・中世","古墳時代の水路を確認しました。また、古代〜中世前期の道路状遺構を確認しました。\n遺物では、古墳時代の土器・木製品が多数出土しました。","58","",137.0601821,35.26064683],
    [81,"榿ノ木洞遺跡","関市下有知字榿ノ木洞・小和田・下蚯蚓洞","美濃地区","1996・1998","古墳時代〜平安時代・中世・近世","古墳時代〜平安時代の住居跡20軒を確認し、昭和63年の関市教育委員会の調査とあわせて、100軒を超す住居跡が確認されました。\n「美濃」刻印須恵器（「みのこく」こくいんすえき）、石丸鞆（いしまるとも）など、当時の官衙（かんが）との関係を示す遺物が出土しました。","59","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1227.html",136.5542497,35.30403521],
    [82,"岩井谷遺跡","揖斐郡揖斐川町春日美束","西濃地区","1997・1998","縄文時代","揖斐川に流れ込む粕川(かすがわ)の上流部に立地する遺跡で、竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)７軒・立石遺構などを確認しました。遺物では縄文土器・石器・土偶(どぐう)・石棒(せきぼう)が出土するなど、縄文人のくらしぶりを解き明かす多くの資料を得ることができました。","60","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2081.html",136.2558874,35.28520187],
    [83,"冬頭城跡・冬頭山崎１号古墳・冬頭山崎２号古墳・冬頭山崎１号横穴","高山市冬頭町","飛騨地区","1998","古墳時代・中世","川上川と宮川の合流点付近に位置する小瀬山山頂部に位置します。尾根上に簡素な城の防御施設をつくる中世の城郭（じょうかく）遺構を見つけました。\nまた古墳の中には、埋葬施設の底部に溝を持つ竪穴式石槨（せっかく）を見つけ、床面から金銅製の刀装具（とうそうぐ）をもつ鉄剣、鉄鏃（てつぞく）などが出土しました。","61","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1177.html",137.1437079,36.09359829],
    [84,"上ヶ平遺跡","下呂市森","飛騨地区","1997・1998・2000","縄文時代・古墳時代〜平安時代","下呂市街の北方に広がる傾斜地に立地します。縄文時代早期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）や焼礫集石遺構（しょうれきしゅうせきいこう）、古墳時代の竪穴住居跡、奈良時代末から平安時代にかけての竪穴住居跡や建物跡を確認しました。遺跡の東2500mには、下呂石の産出地として知られた湯ケ峰（ゆがみね）があり、下呂石製の石器類が多く出土しました。須恵器（すえき）や土師器（はじき）のほか、灰釉陶器（かいゆうとうき）などが出土しました。","62・73","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/3015.html",137.1511084,35.48242527],
    [85,"岩垣内遺跡","高山市丹生川村板殿","飛騨地区","1998","縄文時代","小八賀川右岸の丘陵地に位置します。調査では、縄文時代中期終わり頃から後期中頃にかけての集落跡を発見しました。居住区の西側斜面から大量の遺物が出土しました。","63","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1542.html",137.2421385,36.10549597],
    [86,"小谷戸遺跡","揖斐郡揖斐川町戸入","西濃地区","1998","縄文時代（早期・中期）","縄文時代早期の集石遺構が確認されました。出土遺物では、縄文土器96点、石器34点が出土しました。","64","",136.2652878,35.410717],
    [87,"砂行遺跡・砂行古墳群・砂行火葬墓","関市下有知字砂行","美濃地区","1997","弥生時代〜奈良時代","弥生時代末の急な斜面の一部につくられた集落を確認しました。竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）からは方格規矩四神鏡破鏡（ほうかくきくししんきょうはきょう）を発見しました。\n古墳時代中期の造り出し付き円墳と変形神獣鏡（へんけいしんじゅうきょう）および水辺の祭祀遺構も確認しました。また、古墳時代後期末の古墳６基と奈良時代の火葬墓を確認しました。","65","",136.5516539,35.30558456],
    [88,"野笹遺跡","美濃加茂市野笹町２丁目字紙屋・美濃加茂市御門町","可茂地区","1996・1997・1999・2000・2002","縄文時代〜古墳時代・中世","縄文時代〜中世に至る遺跡です。主な遺構として住居跡や12世紀の大溝につながる堰（せき）を伴う溝跡を確認しました。出土遺物では、縄文時代の土偶（どぐう）・土版、東海最古の遠賀川系（おんががわけい）土器が注目されます。また、12世紀の中国製の青磁盤（せいじばん）の一部が出土しました。","66・71・87","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2845.html",137.0219114,35.26307461],
    [89,"中山道","不破郡関ヶ原町大字野上字北整理","西濃地区","2000","近世","近世中山道を確認し、当時の中山道の道幅を考える上での貴重な資料となりました。","67","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2395.html",136.3018416,35.22171356],
    [90,"南青柳遺跡","関市下有知字南青柳・砂行","美濃地区","1998","弥生時代（末）〜古墳時代","弥生時代末〜古墳時代初めの頃の急な斜面につくられた集落を確認しました。そのなかの竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）から遺存状況の良い土器や鉄製品（&#37447;（やりがんな）・鉄鍬（てつぐわ））が出土しました。","68","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2379.html",136.5510645,35.30516268],
    [91,"南青柳古墳","関市下有知字南青柳・砂行","美濃地区","1998","弥生時代（末）〜古墳時代","古墳時代中期の造り出し付き円墳で二段築成の可能性があります。円丘部は直径19.6mの正円形に近いものであったと考えられます。墳頂部中央に木棺痕跡のある主体部を確認しました。盗掘されていましたが鉄刀・鉄剣・須恵器（すえき）などが出土しています。","68","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2376.html",136.5510356,35.30514759],
    [92,"大平前遺跡","関市下有知字大平前・荘洞","美濃地区","1999","奈良時代","ふもとにある榿ノ木洞遺跡の祭祀（さいし）を行った可能性が高いと考えられます。","68","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2850.html",136.5549317,35.30510812],
    [93,"佐口遺跡","美濃加茂市山之上町","可茂地区","1998","古代・中世・近世","弥生時代から近現代までの遺構・遺物を多数確認しました。中でも古代の竃（かまど）を設けた竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）を多数確認しました。","69","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2855.html",137.0215804,35.28105546],
    [94,"針田遺跡","美濃加茂市下米田町大字西脇字針田","可茂地区","1997・1998","古墳時代〜平安時代・中世〜近世","古墳〜平安時代の住居跡50軒を確認し、この時期に美濃加茂市周辺を代表する集落の一部が明らかになりました。古墳時代前期の建物跡からは、特に県内でも珍しい「特殊器台」（とくしゅきだい）が出土しました。住居跡を中心に500点近い塩を作るための土器（製塩土器）が出土していて、外の地域との交流を考える上でも注目されます。","70","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1403.html",137.0330033,35.28007981],
    [95,"田中浦遺跡","美濃加茂市下米田町大字西脇字田中浦","可茂地区","1998","中世","中世の溝６条・穴などを確認しました。主な遺物として山茶碗（やまぢゃわん）が出土しました。","70","",137.0344234,35.27562769],
    [96,"東坪之内遺跡","美濃加茂市下米田町大字西脇字東坪之内","可茂地区","1997・1998","古墳時代〜中世","古墳時代〜中世の溝や穴・小穴などを確認しました。主な遺物として、土師器（はじき）・須恵器（すえき）・山茶碗（やまぢゃわん）・小皿・奈良時代の火鉢などが出土しました。","70","",137.0337765,35.27583037],
    [97,"赤池４号古墳","美濃加茂市御門町","可茂地区","1999・2000","古墳時代","横穴式石室を持つ円墳を発見しました。墳丘の周りには、外周の直径が約16mの、ほぼ円形となる周溝を確認しました。","71","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2845.html",137.0219596,35.26300009],
    [98,"冨田清友遺跡","美濃加茂市下米田町則光","可茂地区","2000","縄文時代〜古墳時代・中世","縄文早期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）２軒、煙道付炉穴６基を確認しました。そのうち１基は煙道部が残る良好な状態でした。","72","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2999.html",137.0400299,35.27530886],
    [99,"太江遺跡・寿楽寺廃寺跡","飛騨市古川町太江","飛騨地区","1998~2000・2003","古墳時代・奈良時代・平安時代","太江谷の西端にある扇状地上に立地します。白鳳時代に創建された奈良時代に栄えた郷名寺院「高家寺（こうけじ）」の、周辺に広がる講堂基壇（きだん）跡・回廊跡・集落跡を発見しました。緩やかな斜面を掘りこんだ平場に建つ、立派な瓦葺き（かわらぶき）の寺でした。遺物では、墨書土器（ぼくしょどき）・土師器（はじき）など、寺院と関連の深い遺物が出土しました。隣接する地区では、竈（かまど）を持つ竪穴住居跡を発見し、「寺」の刻書土器・鉄製紡錘（ぼうすい）車・\n&#37447;（やりがんな）・瓔珞（ようらく）などが出土しました。","74・94","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2899.html",137.102,36.15199142],
    [100,"保別戸古墳群","高山市国府町瓜巣","飛騨地区","2001","古墳時代","見量山（みはかやま）から伸びる丘陵の尾根先端部に古墳時代の方墳を２基確認しました。１号古墳は出土遺物から古墳時代前期初頭と考えられます。また、１号古墳の墳頂部のほぼ中央で木棺直葬（もっかんじきそう）と思われる痕跡も確認しました。","75","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1411.html",137.124275,36.11128499],
    [101,"徳山陣屋跡","揖斐郡揖斐川町徳山村平","西濃地区","2000","中世〜近世","建物跡13軒、穴139基、溝22条、竈（かまど）１基、地鎮（じちん）遺構１基を発見しました。そのうち、中世の屋敷跡と思われる建物跡は７軒確認しました。出土遺物では、中世〜近世にかけての陶磁器483点、中国磁器96点、近世陶磁器1951点が出土しています。","76","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2087.html",136.2851963,35.41486449],
    [102,"後平茶臼古墳・後平１号古墳・後平遺跡","加茂郡富加町大平賀","可茂地区","1999","縄文時代・弥生時代末〜古墳時代","後平茶臼古墳は竪穴系横口式石室を持つ造り出し付き円墳で中濃地域の首長墓と思われます。木芯鉄板張輪鐙（もくしんてついたばりわあぶみ）（馬具の一部）は県内２例目の出土、尾張型埴輪は県内５例目の出土で北限にあたります。後平遺跡は、周辺の砂行・南青柳・深橋前遺跡とともに弥生時代末〜古墳時代初頭に丘陵部の急斜面に集落を形成しました。\nまた墓（方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ））も確認しました。","77","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1166.html",136.5817581,35.30306353],
    [103,"金ヶ崎遺跡","可児郡御嵩町比衣","可茂地区","2001","弥生時代〜近世","弥生時代末の方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ）群、竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）が見つかり、方形周溝墓からは全国的にも珍しい多孔銅鏃（たこうどうぞく）が出土しました。また、古墳時代終わり頃の竪穴住居跡も見つかりました。100基をこえる中世墓も見つかり、その半数近くで人骨を確認しました。","78","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2295.html",137.0600378,35.26248438],
    [104,"青木横穴墓","可児郡御嵩町比依","可茂地区","2001","古墳時代","御嵩町は美濃地方の横穴墓分布の中心地ですが、この地方の同規模の横穴墓は無袖式（むそでしき）の形態を採ることが多い中、調査した横穴墓では、両袖式の形態を採っていました。このことから、この地方に横穴墓が導入された時期に近い頃のものであることが考えられ、どのようにこの地方に横穴墓による墓制が成立したのかを解決する手がかりになる資料となりました。","78","",137.055911,35.26364344],
    [105,"深橋前遺跡","関市下有知深橋前・小和田","美濃地区","1997・1998","弥生時代（末）〜平安時代（末）","弥生時代末から古墳時代初め頃の急な斜面に造られた竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）から、多くの土器とともに、銅鏃（どうぞく）・筒状銅製品が出土しました。また、須恵器（すえき）・灰釉陶器（かいゆうとうき）を蔵骨器（ぞうこつき）とする火葬墓を６基確認しました。\n平安時代後期の灰釉陶器窯跡からは線刻の文字・文様を持つ碗などが多く出土しました。","79","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1536.html",136.553,35.30437747],
    [106,"藤田坂遺跡","可児市下恵土","可茂地区","2001","弥生時代","弥生時代中期後半の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）と建物跡を確認しました。出土遺物に大型の壷がありました。","80","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1530.html",137.0233261,35.25448973],
    [107,"岩井戸岩陰遺跡","関市武芸川町矢口・小知野","美濃地区","2001","縄文時代〜古墳時代・中世","縄文時代から中世において岩陰内部を利用した祭祀（さいし）の場であったと考えられます。","81","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2084.html",136.4958359,35.32215942],
    [108,"尾元遺跡","揖斐郡揖斐川町徳山","西濃地区","2001","縄文時代・平安時代","縄文時代早期末、前期の終わり頃及び中期の集落跡が確認されました。遺構の確認数や遺物の出土数から比較的短期間の活動の場として利用されていたのかもしれません。後期から晩期にかけては遺物の数が少なく、居住を必要としないような利用の場へと変化しています。また、平安時代の水場遺構が見つかっており、トチの実の処理施設であったのではないかと考えられます。","82","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2851.html",136.2807885,35.42069999],
    [109,"寺平遺跡","揖斐郡揖斐川町塚","西濃地区","2001","縄文時代・平安時代","平安時代の建物跡などを確認しました。そのうちの一つは、礎石と据え付け穴を確認しており、礎石立ちであることからお寺の可能性があります。内外面に漆が付着した灰釉陶器（かいゆうとうき）が出土しました。また、縄文時代の陥し穴などを確認しました。","83","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2994.html",136.260067,35.43508211],
    [110,"丸石古窯跡群","土岐市泉町久尻","東濃地区","2001","中世","鎌倉時代初め頃の窖窯（あながま）が４基横並びに築かれていました。窯の中や失敗品を廃棄した灰原(はいばら）からは、多量の山茶碗（やまぢゃわん）、皿をはじめ、四耳壺（しじこ）、鉢（はち）、硯（すずり）、陶丸（とうがん）、仏供（ぶく）など多くの種類の焼き物が出土しました。","84","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2374.html",137.1014899,35.21421688],
    [111,"前山２号古墳","可児市柿田前山","可茂地区","2000","近世","古墳時代後期の古墳を確認しました。石室内から、須恵器（すえき）や金属製品（鉄鏃（てつぞく）・刀子（とうす）・刀装具（とうそうぐ））、装身具（玉類・耳環（じかん））が出土しました。","85","",137.0602541,35.25377152],
    [112,"杉ヶ洞３・５号墳","可児市柿田馬乗洞","可茂地区","2000","古墳時代","古墳時代後期の古墳を２基確認しました。石室内から、須恵器（すえき）、金属製品、玉類が出土しました。","85","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2861.html",137.060872,35.25351805],
    [113,"一本杉遺跡","美濃市大字極楽寺字一本杉","美濃地区","2002","縄文時代・中世〜近世","近世の土地区画の石列がありました。渡来川北遺跡と同じ粘土層があり、縄文時代早期の石器が数点出土しています。","86","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1539.html",136.5320642,35.31527754],
    [114,"改田遺跡","美濃市大字極楽寺字茶屋下","美濃地区","2002","中世〜近世","茶屋下遺跡に隣接する遺跡で、建物跡が周辺に並ぶ可能性が高いと思われます。","86","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1539.html",136.5325527,35.31524004],
    [115,"栗坪遺跡","美濃市大字御手洗字栗坪","美濃地区","2002","中世・近世","人為的につくられた平坦地があり、中世〜近世の山岳宗教と関係があると考えられます。","86","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2372.html",136.5205606,35.34408377],
    [116,"茶屋下遺跡","美濃市大字極楽寺字茶屋下","美濃地区","2002","縄文時代・中世〜近世","土師器皿（はじきざら）が多く出土し、周辺に伝極楽寺の存在が考えられます。渡来川北遺跡と同じ粘土層があり、縄文時代早期の石器が数点出土しています。","86","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1539.html",136.5322533,35.31527797],
    [117,"深渡Ａ地点遺跡","美濃加茂市下米田町西脇","可茂地区","2002・2010","縄文時代・中世〜近代","この遺跡からは、古い地図との比較から中世の屋敷地を区画すると考えられる溝跡を確認しました。\nその他、室町時代の溝跡、集石遺構・穴などの遺構と山茶碗（やまぢゃわん）・古瀬戸・土師器（はじき）・大窯などの陶磁器類及び打製石斧（だせいせきふ）などの石器を確認しました。近世の遺構・遺物はほとんど確認できなかったことから、調査区域周辺は室町時代には集落が広がっていましたが、近世には集落はなくなり、現在同様畑地となっていたと考えられます。","88・118","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1221.html",137.0316241,35.27503857],
    [118,"土岐口西山３・４号小窯跡","土岐市土岐津町土岐口","東濃地区","2002","中世","中世（鎌倉時代中期）の古窯跡２基と窯跡に付属する灰原（はいばら）、工房跡を確認しました。山茶碗（やまぢゃわん）の他、四耳壺（しじこ）や瓶子（へいし）などの古瀬戸製品が出土しました。","89","",137.103354,35.19516867],
    [119,"上岩野遺跡","高山市清見町牧ヶ洞","飛騨地区","2001","縄文時代","縄文時代中期後半から後期前半にかけての集落跡を検出しました。北側の山腹斜面にも竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）を造っています。","90","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2284.html",137.1002264,36.08078927],
    [120,"重竹遺跡","関市下有知","美濃地区","2001","縄文時代〜近世","奈良〜室町時代にかけての集落跡や室町〜江戸時代にかけての屋敷跡（やしきあと）が見つかりました。なかでも鎌倉〜室町時代はじめの、鍛冶（かじ）関連の遺構が注目されます。\nまた、土塁を伴う堀（幅約４m）に区画された屋敷地には当時の有力者が住んでいたと考えられます。","91","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2856.html",136.5415966,35.31089767],
    [121,"上西田遺跡","美濃市志摩","美濃地区","2001","中世〜近世","近世の畑跡と考えられる畝状遺構(うねじょういこう）や、中世末の水田跡、当時の足跡を確認しました。","91","",136.5342914,35.31037128],
    [122,"洞雲戸遺跡","関市下有知","美濃地区","2002","中世","12世紀末〜13世紀前半の経塚（きょうづか）と考えられる遺構を確認しました。","91","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1412.html",136.5447395,35.31134717],
    [123,"柿田遺跡","可児市柿田、可児郡御嵩町顔戸","可茂地区","1999~2001","縄文時代〜近現代","縄文時代から近現代までの遺跡です。\n約41万点の土器と約２万点の木製品が出土しました。","92","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2092.html",137.0602069,35.25537689],
    [124,"柿田前山遺跡","可児市柿田","可茂地区","2000","中世・近世","中近世の集落跡を確認しました。","92","",137.0608259,35.25227221],
    [125,"七反田番場山７・10・11号古墳","岐阜市加野山本","岐阜地区","2003","古墳時代","古墳時代中期〜後期の古墳を３基発見しました。","93","",136.4951531,35.27518677],
    [126,"いじま遺跡","揖斐郡揖斐川町櫨原平リボキ","西濃地区","2003","縄文時代","断続的ながら縄文時代早期〜中期の遺構・遺物を確認した遺跡です。中でも中期終わり頃は、多くの遺構・遺物が見つかりました。一方、後期以降の遺構・遺物はなく、人の営みが途絶えたかもしれません。このような遺跡のあり方は、今後旧徳山村域の縄文時代全体の土地利用を考える上で重要な事例となります。","95","",136.2726024,35.43390458],
    [127,"櫨原神向遺跡","揖斐郡揖斐川町櫨原神向","西濃地区","2003","縄文時代","縄文時代早期および後期の遺構と遺物を確認した遺跡です。中でも注目すべきは、早期の土器が出土し、その時期に掘られた穴も特定できたことです。石器では旧徳山村域では２例目となる早期の環状石斧(かんじょうせきふ）がみつかりました。興味深い遺物であり注目されます。","95","",136.2623532,35.43297878],
    [128,"大杉西遺跡","関市大杉","美濃地区","2003","縄文時代・弥生時代・近世〜近代","主な成果は、縄文時代から弥生時代にかけての集落域と墓域を確認したことです。\n縄文時代では、時期が中期終わり頃〜末の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）と中期末の建物跡などを確認しました。竪穴住居跡の平面形は方形状で、中央付近に地床炉（じしょうろ）を確認しました。また、建物跡は桁行２間、梁行（はりゆき）２間の近接棟持柱（きんせつむなもちばしら）建物跡が発見されました。\n弥生時代では、竪穴住居跡３軒のうち１軒は直口鉢（ちょっこうばち）や小型器台、磨製石鏃（ませいせきぞく）など非日常的な遺物が出土している点、磨製石鏃の未製品と製品が出土した点、壷の出土比率が高い点などから、他の竪穴住居跡とは異なる性格のものと思われます。","96","",136.5658868,35.27252676],
    [129,"大平遺跡","恵那市串原字下大平","東濃地区","2003","縄文時代〜古墳時代","縄文時代の穴、弥生時代初頭の土器棺墓(どきかんぼ）、古墳時代前期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）が見つかりました。縄文土器は、縄文時代中期末〜初頭のものが中心で、中には水銀朱などで赤彩された土器も出土しています。縄文時代の石器には当地域で採取できない石材（黒曜石・下呂石）を用いた剥片石器（はくへんせっき）があり、多数を占めています。石材分析の結果、黒曜石については長野県和田峠及び諏訪産であることが確認できました。また、ヒスイ製の垂飾（たれかざり）が穴の中から１点出土しています。弥生時代初頭の土器棺墓を４基確認しました。土器は日常使用された深鉢を棺に転用したものでした。古墳時代前期の竪穴住居跡の埋土及び住居内の穴からは土師器甕（はじきがめ）やミニチュア土器が出土しました。","97","",137.2438,35.15449352],
    [130,"西ヶ洞廃寺跡","飛騨市古川町寺地西ヶ洞","飛騨地区","2002","平安時代","平安時代の山林寺院跡です。建物の復元にはいたりませんでしたが、礎石と思われる石列を確認しました。また、鍛冶（かじ）に関連する遺構を２基確認し、鉄滓（てっさい）、砥石（といし）、金床石（かなどこいし）などが出土しました。この遺跡は、寺院に伴う工房跡と考えられます。","98","",137.0758561,36.14403348],
    [131,"大洞平５号古墳","飛騨市古川町中野大洞平","飛騨地区","2003","古墳時代","古墳時代後期の方墳であることを、周溝の平面形状から確認しました。周溝内及び墳丘上からは、須恵器（すえき）が出土し、周溝付近からは馬具（兵庫鎖（ひょうごぐさり））が出土しました。","98","",137.0930899,36.14377922],
    [132,"中野山越遺跡","飛騨市古川町中野山越","飛騨地区","2002","平安時代","平安時代の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）１軒を確認しました。竪穴住居跡からその時に使われたと思われる須恵器（すえき）がまとまって出土しました。","98","",137.0938,36.14359143],
    [133,"中野大洞平遺跡","飛騨市古川町中野","飛騨地区","2002・2006","縄文時代〜奈良時代","縄文・弥生・奈良時代の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）を確認しました。弥生時代の墓（方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ））や竪穴住居跡は、墓域と集落を同時に確認した飛騨地方では初めての例になります。方形周溝墓からは弥生時代後期の供献（きょうけん）土器が出土しました。また、弥生時代後期の竪穴住居跡からは、北陸地方の影響を受けた土器と東海地方の影響を受けた土器類が一緒に出土しました。","98・107","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2385.html",137.0930841,36.14378072],
    [134,"八幡前２号墳","美濃市松森","美濃地区","2004","古墳時代（後期）","斜面上に構築された横穴式石室を持つ古墳です。石室の様子・出土遺物より、古墳時代後期の古墳と推定しました。また、周辺では集石遺構が発見され、それらは、崩壊・削平された別の古墳の石材である可能性が強く、八幡前２号古墳との関連が考えられます。","99","",136.5457161,35.31369711],
    [135,"八幡前遺跡","美濃市松森","美濃地区","2004","縄文時代（晩期）〜古墳時代","穴を多く確認しました。遺物は縄文時代中期〜晩期、弥生時代前期〜中期、古墳時代のものが出土し、量は非常に少ないものの、鎌倉時代の山茶碗（やまぢゃわん）や近世陶器も出土しています。そのなかでも弥生時代中期の土器片が大部分を占めています。一方、石器は種類が少なく、縄文時代晩期〜弥生時代の様相が強く表れています。遺物の出土状況から、集落の中心は当遺跡の斜面上方にある可能性があります。","99","",136.5456845,35.31371632],
    [136,"清願寺跡","美濃市横越","美濃地区","2004","中世〜近世","調査区東側では礎石建物跡１棟を確認しました。梁行（はりゆき）１間（けん）×桁行不明であり、全体像は掴めませんでしたが、比較的小規模な建物と推測されます。この遺構は敷き土（良質な褐色土）を伴い、敷き土から土師器皿（はじきざら）２点が出土しました。この建物跡の東には阿弥陀堂があり、両者は規模・向きなどの点で類似しており、建物跡は仏堂跡であった可能性があります。一方、調査区西側では甕（かめ）埋設遺構１基を確認しました。用途について確実なことは言えませんが、甕内堆積土壌の自然科学分析の結果、農業生産活動に用いられた水甕であったと推測できます。遺構の年代は、甕の生産時期から17世紀末〜18世紀初頭と考えられます。","100","",136.5351002,35.32308064],
    [137,"浦畑遺跡","可児郡御嵩町上恵土浦畑","可茂地区","2001~2003","中世・近世","鎌倉時代前期から江戸時代にかけての遺構・遺物を確認しました。土塁、地境溝、建物跡23棟や井戸跡を確認しました。西から東南に向かって徐々に集落が拡大することが分かり、上恵土城跡周辺の中近世集落の移り変わりが明らかになりました。\n出土遺物では「長谷川氏」と墨書（ぼくしょ）が入った近世の陶器があります。上恵土城主に「長谷川五郎右衛門」という人物がいたことが文献で残されています。両者を関係づける史料はありませんが、「長谷川氏」という文字は上恵土城主の子孫を想像させる興味深い遺物であり、注目されます。","101","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2100.html",137.0420711,35.26099127],
    [138,"上恵土城跡","可児郡御嵩町上恵土出口","可茂地区","2001・2002","中世・近世","鎌倉後期から江戸時代にかけての遺構・遺物を確認しました。室町時代後期を中心に建物跡５棟や井戸跡、城館を囲む溝跡も確認しました。遺物は中世の土師器（はじき）・瀬戸美濃大窯陶器が見つかりました。中世城館の存在を裏付ける重要な事例となりました。","101","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2100.html",137.0425654,35.2608049],
    [139,"野内遺跡Ａ地区","高山市上切町","飛騨地区","2003","古墳時代・平安時代","遺跡東端に位置するＡ地区では、主に古墳時代中期の集落跡を発見しました。建物内に竈（かまど）が導入される前の段階の集落跡であり、石をコの字状に組んだ石囲炉を備える建物が多く見つかりました。出土遺物の大部分を占めるのは、高坏と甕（かめ）を主体とする土師器（はじき）です。また、出土遺物には飛騨地域で最も古いと考えられる須恵器（すえき）が含まれていて、当地域への須恵器導入初期の事例として注目されます。この集落は、調査地点の南西約300ｍに位置する赤保木古墳群(県指定史跡）を造った人たちの居住地である可能性があります。","102","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2843.html",137.1354329,36.09566493],
    [140,"塚奥山遺跡","揖斐郡揖斐川町塚字塚奥山","西濃地区","1996~1998・2001・2002","縄文時代","縄文時代早期終わり頃から晩期の初め頃にかけての遺構・遺物を確認した遺跡です。遺構の中で注目すべき点は、中期終わり〜後期はじめの集落跡の形態がわかったことです。中期終わりでは、中央に環状墓群、その外側に柱穴群と貯蔵穴、外周に竪穴住居跡群（たてあなじゅうきょあとぐん）が環状に巡る集落の形態をとることが判明しました。後期はじめ頃では、環状となる配石遺構群を重なって確認しました。遺物の中で注目すべき点は、旧徳山村域で絵画土器・三角&#22740;形（さんかくとうがた）土製品・ヒスイ製磨製石斧・骨角器が出土したことで、これらは初例です。顔料など付着遺物の出土量が最も多く、これらの成果から、当遺跡は旧徳山村域の縄文時代の遺跡の中の拠点集落の一つであり、遺跡間の結びつきが注目されます。","103","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/3008.html",136.2455083,35.44469257],
    [141,"東野遺跡","加茂郡坂祝町黒岩・大針","可茂地区","2003・2004","縄文時代（中期）・古墳時代（前期・後期）・古代","縄文時代中期、古墳時代前期・後期、古代の遺跡です。各時代の比較的短期間のまとまった土器群が出土したことから、それぞれの時代で、短間に集中して集落を営んでいたことが分かります。特に古墳時代前期は、４世紀前半の竪穴住居（たてあなじゅうきょあと）と大型の建物跡が見つかり、美濃加茂盆地周辺の中でも規模の大きい集落が段丘周辺に広がっていたことが\n分かりました。また、集落跡からの出土例が稀な鉄鎌が竪穴住居跡から出土したことからも、当遺跡は古墳時代前期には美濃加茂盆地周辺では中心的な集落の一つであったと考えられます。","104","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1407.html",136.5903712,35.26477726],
    [142,"赤保木遺跡","高山市赤保木町宮ヶ平","飛騨地区","2004","縄文時代（中期）、弥生時代、古墳時代","縄文時代中期中頃から終わり頃にかけての竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）25軒、弥生時代中期の竪穴住居跡２軒、古墳時代はじめ・中期の竪穴住居５軒を確認した集落跡です。縄文時代の竪穴住居跡は遺構の重なりが少なく、石囲炉の炉石が残っているものが多いです。出土遺物は、縄文時代中期はじめ頃から終わり頃の土器が多く、信州・北陸・東海・関西などの影響を受けた飛騨地方独特のものがほとんどです。他地域からの影響は土偶(どぐう)などの土製品、石棒（せきぼう）などの石器にも見られます。また、焼失住居跡、土器敷炉、出土した土偶やミニチュア土器などは、住居の廃棄儀礼（はいきぎれい）に関係するものと考えられます。","105","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1138.html",137.1318883,36.09384844],
    [143,"櫨原村平遺跡","揖斐郡揖斐川町","西濃地区","2002・2003・2005","縄文時代・中世〜近世","縄文時代と中近世の遺構や遺物を確認しました。縄文時代の遺構の中で注目される点は、遺跡の中央に建物跡群が並び、これを取り囲むように竪穴住居跡群（たてあなじゅうきょあとぐん）が並んでいる事が分かったことです。また、環状に配置する住居跡の北西奥に２間（けん）×３間（けん）の構造を持つ縄文時代中期の建物跡を発見しました。中世では建物跡を確認し、この時期に相当する青白磁（せいはくじ）の梅瓶（めいびん）や金属製品の鍬形台（くわがただい）などが旧徳山村域で初めて出土しました。これらの成果から、当遺跡は旧徳山村域の縄文時代中期の拠点集落及び中世から近世の遺跡の中の集落の一つであり、当時の揖斐川上流域の様子を知る上で貴重な資料です。","106","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1404.html",136.2635105,35.43228601],
    [144,"野内遺跡Ｄ地区","高山市上切町野内","飛騨地区","2004・2005","弥生時代・古代・中世・近世","遺跡西端に位置するD地区では、主に弥生時代後期から中世にかけての遺構・遺物を確認しました。\n弥生時代後期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）は、建物のほぼ中央に石をコの字状にした炉がありました。飛騨地域でのコの字状石囲炉がみつかった例では、初期の例として注目されます。\n中世の四面庇（びさし）を持つ建物跡と総柱建物跡は、出土遺物や建物跡の方向から同時期に建てられていたと考えられます。この建物跡の周囲には、遺構が少なく、住居跡が確認されないことから、集落と離れた場所と考えられます。","108","",137.1334577,36.09472159],
    [145,"小洞遺跡","関市広見字小洞","美濃地区","2006","弥生時代（末）〜古墳時代（初頭・後期）・中世","弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃の墓（方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ））、中世の墓を確認した遺跡です。注目される点は、方形周溝墓から、パレススタイル土器が良好な状態で出土したことです。","109","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2300.html",136.5152097,35.30285677],
    [146,"小洞西１号古墳","関市広見字小洞","美濃地区","2006","古墳時代（後期）","古墳時代後期の円墳である小洞西１号古墳は、周辺地域で同時期の古墳が横穴式石室を持つのに対し、木棺直葬による主体部とします。この違いは、主体部の出土遺物から被葬者の階層差によるものである可能性が考えられます。","109","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2300.html",136.5151497,35.30286899],
    [147,"有坂薬師堂遺跡","郡上市八幡町有坂","美濃地区","2007","縄文時代","縄文時代中期終わり頃から晩期初め頃の遺構・遺物を確認しました。注目すべき点は、縄文時代中期終わり頃から晩期の各種遺構において、石棒（せきぼう）及び石棒状自然石が様々な状況で出土していることです。このことから、当遺跡は断続的ではありますが長期間、墓や祭祀（さいし）・儀式的な空間として利用された可能性が考えられます。このような石棒の多様な出土状況は、飛騨や信州における出土事例と類似します。","110","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1158.html",136.5626921,35.45209359],
    [148,"野内遺跡Ｂ地区","高山市上切町","飛騨地区","2002・2004・2005","縄文時代・古墳時代・平安時代・室町時代・江戸時代","縄文時代から近世までの遺跡です。Ｂ地区の注目すべき点は、平安時代前半における村落の様子が分かったことです。この時期の出土遺物として緑釉陶器（りょくゆうとうき）、双耳坏（そうじつき）、耳皿、火舎（かしゃ）などの特殊品、硯（すずり）、刀子（とうす）、腰帯具（ようたいぐ）などの官人に関わる遺物があります。さらに「定主」、「定」という人名を示す墨書土器（ぼくしょどき）が出たこと、官人による鍛冶工房（かじこうぼう）の特徴を有する鍛冶関連遺構の出現、条里地割（じょうりちわり）による強い規制を受けた居住域の存在などから、平安時代前半には、政治主導よって村落がつくられた可能性があります。また９世紀代には鉄製品の生産が行われ、周辺地域からも技術者を集めて行われていた可能性があります。","111","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/2844.html",137.1344431,36.09568697],
    [149,"ウバガ平遺跡・ウバガ平古墳群","高山市上切町","飛騨地区","2001・2007","縄文時代〜古墳時代･平安時代","ウバガ平遺跡では、縄文時代早期〜古墳時代と平安時代の遺構を確認しました。縄文時代では早期の土器が比較的多く出土し、焼礫集積遺構（しょうれきしゅうせきいこう）や炉穴（ろあな）の可能性のある穴を確認しました。住居跡は、前期末と中期のものを確認しました。弥生時代中期終わり頃の住居跡からは良好な状態で甕（かめ）が多数出土しました。古墳時代の住居跡では、竈（かまど）を使い始めた頃の様子がわかりました。古代以降の遺構・遺物は少ないですが、平安時代の土器を焼いた穴を確認しました。\nウバガ平古墳群（ウバガ平１号古墳〜４号墳）は、４基とも簡素で小規模な石室を持つことから、高山盆地周辺に分布する古墳群の中でも特に終わり頃の時期に位置づけられます。","112","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/3012.html",137.1338677,36.10071602],
    [150,"広畑野口遺跡","各務原市蘇原青雲町","岐阜地区","2007・2008","古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・室町時代","古墳時代から江戸時代にかけての遺跡です。７世紀終わり〜８世紀中ごろの建物跡は当時の役所跡である可能性が高いと考えられます。これらの建物の配置は真北方向に長い建物とこれに直角となる方向に長い建物で組み合わされており、建物跡の内側には建物跡のない空間があり、さらに建物を囲む柵跡(さくあと）があり規則的な配列をしています。この時期の出土遺物としては都から持ち込まれた特殊な土器や、硯（すずり）などの役人の事務に関わる遺物があります。また「美濃」が刻まれた須恵器（すえき）が１点、「大」という字が墨で書かれた土器が１点出土しています。\n５世紀始め〜６世紀末の須恵器は一般の集落に出土するものではないため、古墳があったか、まつりごとを行っていたと考えられます。\n室町時代の遺物では、擂鉢（すりばち）や甕（かめ）など一般的な集落で使われるものが多く出土しました。","113","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1409.html",136.5146893,35.24457615],
    [151,"東町３・４号古窯跡","多治見市東町","東濃地区","2009","室町時代","室町時代中期の山茶碗（やまぢゃわん）が見つかりました。また、操業した期間を裏付ける窯道具類を発見しました。さらに、窖窯(あながま）から大窯へ変化する中間的位置にあるプレ大窯の構造を示す焼台を採取しました。出土した山茶碗（やまぢゃわん）などから東町３・４号古窯跡がある丘陵地上では14世紀後半から操業が始まり、15世紀後半に至るまで窯業が営まれたことが判明しました。","114","",137.091271,35.1941583],
    [152,"中屋敷遺跡・中屋敷古墳","岐阜市岩田西","岐阜地区","2008","古墳時代・鎌倉時代・室町時代・江戸時代","古墳時代始めから近世にかけての遺跡です。古墳時代終末期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）からは、７世紀後半から８世紀初頭の土器とともに瓦が出土しました。また、室町時代から近世にかけての集落は、集落内にある中屋敷古墳を意識しており、中世から近世の人々が居住域の配置の際にあえて古墳を壊さず、信仰の対象などのために残した結果と考えられます。なお、集落内には、16世紀から17世紀初め頃に作られた地下に掘られた大きな穴が３基存在しています。\n中屋敷古墳は横穴式石室がある墳丘規模15ｍ以上の古墳です。石室の形態等から、およそ７世紀前半から中頃に造られた古墳であると考えられます。","115","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/8709.html",136.4948793,35.26265373],
    [153,"三枝城跡","高山市上切町","飛騨地区","2006・2008","弥生時代・古代・中世","飛騨の戦国大名三木氏にゆかりのある山城跡です。調査の結果、主郭の東方において東曲輪（くるわ）Ｉ・東曲輪ＩＩを、主郭北東において北東曲輪を確認しました。眺望に恵まれた東曲輪Ｉ・東曲輪ＩＩは主に監視所としての役割を担ったのに対し、主郭に近い北東曲輪は防御機能を担っていたと考えられます。城内で見つかった遺構には、飛礫（つぶて）の集積や柵跡（さくあと）、それに狼煙場（のろしば）跡の可能性がある焼土が積もった遺構がありました。\n山城関連以外の穴からは弥生時代前期の土器が出土しています。また、山麓（さんろく）で発見された古代に造られた平場は、出土遺物に仏具類や雁股鏃（かりまたぞく）がみられることなどから、山林寺院跡と考えられます。","116","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9198.html",137.1339788,36.09599143],
    [154,"手斧猿尾","羽島郡笠松町","岐阜地区","2010","江戸時代","木曽川の河川敷の右岸に立地する江戸時代中期に築かれた堤（つつみ）です。「猿尾」の調査事例は岐阜県内では２例目です。\n今回の調査では、表面を石でおおわれた堤の一部を発見し、その構造について明らかにすることができました。堤の一番高い部分には長径50cmほどの平らな面をもつ川原石が丁寧に敷き詰められていました。斜面の部分には長径30cm〜40cmほどの楕円形の川原石が、突き刺すように組まれていました。\nまた、断面を観察した結果、手斧猿尾は、何度も修築されて今ある形になったことが分かりました。","117","",136.4903199,35.22366826],
    [155,"荒尾南遺跡Ａ地区","大垣市荒尾町・桧町","西濃地区","2006~2008・2009~2011","縄文時代・弥生時代・古墳時代・室町時代・江戸時代","縄文時代晩期から古墳時代後期、古代から近世の遺構を確認した遺跡です。弥生時代中期の墓（方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ））が南北方向につらなり、大きな墓のまとまりを形成しています。平成21・23年度の発掘調査の結果、弥生時代中期前半では、方形周溝墓の間に道のような空白地があり、南北又は東西方向に墓を配置していましたが、中期後半では墓３基又は４基を１単位とするまとまりが、広範囲に点在している様子がわかりました。また、弥生時代後期頃に始まる集落の形成は、弥生時代末から古墳時代初頭においてもっとも盛んとなり、竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）155軒が見つかる大規模な集落となりました。古墳時代前期には集落は途絶えていますが、中世にいたって水田として利用されています。美濃地方西部の弥生時代から古墳時代前期における、中心的な集落の一つであったと思われます。そのほか、近世から近代の水田跡が中世の道路状遺構の地割りを基に作られていたことも判明しました。","119・127","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9407.html",136.3503,35.22180002],
    [156,"荒尾南遺跡Ｂ地区","大垣市荒尾町・桧町","西濃地区","2006~2011","縄文時代・弥生時代・古墳時代・中世","主に縄文時代晩期から古墳時代前期の遺構を確認した遺跡です。Ａ地区からＢ地区にかけて、弥生時代中期の墓（方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ））が南北方向につらなり、大きな墓のまとまりを形成しています。また、弥生時代後期頃に始まる集落の形成は、弥生時代末から古墳時代初頭においてもっとも盛んとなり、大規模な集落となりました。美濃地方西部の弥生時代から古墳時代前期における、中心的な集落の一つであったと思われます。","121・131","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/11384.html",136.3503266,35.22134032],
    [157,"岩田東Ａ遺跡","岐阜市岩田西","岐阜地区","2009","弥生時代・安土･桃山時代・江戸時代","弥生時代中期から近世にかけての遺跡です。弥生時代後期の墓（方形周溝墓（ほうけいしゅうこうぼ））からは、滋賀県で見られる甕(かめ）のほかに高坏、赤彩のある壷が出土しています。特に甕は溝の底にすえた状態で出土しています。弥生時代中期の墓（方形周溝墓）の周辺からは、高坏・壷・甕が出土しています。\n安土･桃山時代の溝は深さが60〜80cmと深く土師器皿（はじきざら）が63点出土しています。この溝は布堀と呼ばれる堀り方をしている溝で、居住域を25ｍ四方で区画しています。布堀の溝には塀や垣根があったと思われます。区画内に確認できた建物跡は２棟です。\nこの場所は、弥生時代には墓として、７世紀終わり〜８世紀始めと10〜11世紀には集落として、中世後期には溝で区画された屋敷地として、近世では再び集落としてというように、時期によって使われ方が違うことが分かりました。","120","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9209.html",136.5006306,35.26431455],
    [158,"野内遺跡Ｃ地区","高山市上切町","飛騨地区","2005・2006","古墳時代・平安時代","縄文時代から近世までの遺跡です。\nＣ地区では古墳時代と古代の水田跡・集落跡を確認しました。古墳時代では、ナスビ形鍬(くわ）をはじめとする木製農具が飛騨地域で初めて出土したことが注目されます。出土した古墳時代はじめ頃の土師器（はじき）には東海系、北陸系、信州系の個体が一緒に出土し、周辺諸地域との活発な交流を知ることができます。古代については、平安時代前半かそれにやや先立つ時期に水路が作られており、水田が開かれたことを確認しました。水田跡・水路跡からは曲物（まげもの）容器・杓子（しゃくし）・箸・火付け木・馬形など多様な木器類が出土し、この集落の近くの森林を活用したことがわかりました。\n土器類には多量の墨書土器（ぼくしょどき）・硯（すずり）のほか京都産緑釉陶器（りょくゆうとうき）がみられ、当遺跡の集落・水田は、官営による生産の中心地区の一部であった可能性があります。","122","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9229.html",137.13439,36.095511],
    [159,"牧野小山遺跡","美濃加茂市牧野・下米田町小山","可茂地区","2010","縄文時代・弥生時代","縄文時代早期から古代までの遺跡です。縄文時代早期と思われる焼けた石がたくさん詰まった遺構を１基確認しました。この遺跡からは石器が１点出土しています。縄文時代中期の竪穴住居跡（たてあなじゅうきょあと）を６軒確認しました。この内の４軒は重なり合い、更に２軒は同じ位置に建て替えを行っています。また、縄文時代の貯蔵穴と思われる穴も確認しました。\n昭和47年の調査でも縄文時代早期・中期・晩期の遺構が確認されていて、縄文時代の遺構は飛騨川沿いにあることが明らかになりました。縄文時代以外には弥生時代中期の竪穴住居跡１軒や穴を確認していますが、縄文時代に比べると遺構も遺物も数が少なくなっています。当遺跡では縄文時代、弥生時代、古代と時代によって居住域が異なることが明らかになりました。","123","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/8981.html",137.032713,35.2648675],
    [160,"芥見町屋遺跡","岐阜市芥見町屋","岐阜地区","2010","弥生時代、古代〜近世","この遺跡は、藍川橋がかけられるまで続いていた、長良川の旧渡船場（芥見の渡し）の隣りにあります。発掘調査により、鎌倉時代から明治時代にかけての建物跡13棟、柵跡（さくあと）２列、溝４条、井戸３基、穴・柱穴894基、整地遺構１基が見つかりました。この場所は、鎌倉時代から室町時代にかけては、物流・旅客輸送の中心地であったと考えられます。","124","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/8489.html",136.5019618,35.27390482],
    [161,"与島Ｂ地点遺跡","高山市上切町","飛騨地区","2007","古墳時代\n、古代","与島Ｂ地点遺跡の背後に広がる丘陵には、縄文時代から古墳時代の集落跡であるウバガ平遺跡、小規模な円墳４基からなるウバガ平古墳群が存在しています。与島Ｂ地点遺跡の調査では、本来の機能や性格の明確な遺構は、確認することができませんでしたが、飛騨地方の古墳時代中期（５世紀代）の高坏に多い坏部分が碗状の高坏や、飛騨地域では初の確認例となる古墳時代の縦櫛(たてぐし）が出土しました。古墳時代の櫛の発見は、この地域の有力者の存在を示す重要な成果といえます。","125","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9611.html",137.1342518,36.10097332],
    [162,"与島Ｃ地点遺跡","高山市上切町","飛騨地区","2007","古墳時代\n、古代","与島Ｃ地点遺跡の背後に広がる丘陵には、三枝城跡(みえだじょうあと)があり、戦国時代の山城の曲輪(くるわ)、古代の平坦地群と礎石建物跡を確認しています。古代の遺構は、出土遺物に仏具があることから、山林寺院と考えられます。与島Ｃ地点遺跡では、古代の遺物が多く出土しました。鉄鉢や漆が付着した土器、墨書土器の可能性のあるものが出土しました。また、柱根が残る柱穴も確認していることから、古代の堀立柱建物が存在した可能性が高いといえます。三枝城跡発掘区で確認した古代山林寺院の規模がより広範囲なものであった可能性が高いことが明らかになりました。","125","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9613.html",137.1343823,36.10044531],
    [163,"岩田西遺跡","岐阜市岩田西","岐阜地区","2008・2009","古墳時代〜飛鳥時代、平安時代、鎌倉時代〜江戸時代","古墳時代後期から近世までの遺構や遺物が発見された遺跡です。\n古墳時代の遺構には、竪穴住居跡３軒、掘立柱建物跡（ほったてばしらたてものあと）２棟、溝跡、集石遺構などがあり、溝跡は居住域を取り囲むように見つかりました。溝跡がとぎれるあたりには焼けた土が残る穴があり、出入り口付近で火を使っていたようです。\n中世（鎌倉時代〜安土・桃山時代）の水田跡からは、双魚文（そうぎょもん）のある青磁の鉢、赤一色の漆器、擬漢式鏡（ぎかんしききょう）、刀装具（とうそうぐ）、銅錘（どうすい）、銅鈴（どうれい）等が出土しています。これらも通常の集落からはあまり出土せず、多くが中世の城館跡から出土する遺物です。このことから、当遺跡の近くに中世城館跡があったと推測できます。発見した水田跡の畦畔は明治時代の字絵図（あざえず）と位置が一致しており、室町時代から明治時代に至るまで、同じ区画を使用していたと考えられます。","126","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9210.html",136.5000769,35.26372707],
    [164,"下切遺跡","下呂市金山町中切","飛騨地区","2008・2009","縄文時代、古代、中世、近世","下切遺跡における調査では、縄文時代前期、古代から近世の遺構を確認した。縄文時代では、竪穴建物４軒と竪穴建物の可能性がある遺構２か所を確認した。縄文時代前期後半の古い時期の竪穴建物は発掘区中央、前期後半の新しい時期の竪穴建物は発掘区北側に偏る様相が明らかになった。古代では、８世紀後葉から９世紀の竪穴建物を確認した。発掘区北側に推定される東山道飛彈支路や、東側を南流する飛彈川の渡し場を維持するための集落と考えられる。中世では四面庇建物１棟を確認した。近世では、平成20年度発掘区で民家と考えられる掘立柱建物１棟を確認した。平成21年度発掘区では、17世紀後半から18世紀前半の鍛冶遺構、倉庫と考えられる掘立柱建物跡群を確認することができ、川下げされた木材を堰き止め検査した場所とされる下原中網場との関連性をうかがい知ることができる。","128","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/11418.html",137.095444,35.40324947],
    [165,"荒尾南遺跡Ｃ地区","大垣市荒尾","西濃地区","2007~2009・2011","弥生時代前期〜古墳時代後期・古代〜中世","弥生時代前期から古墳時代後期、古代から中世の遺構を確認した遺跡です。遺跡を分断するように、西側には自然流路が、東側には荒尾南遺跡Ａ・Ｂ地区から続く大溝が、それぞれ南北方向に流れています。\n大溝の東側では、Ｂ地区南東部から続く弥生時代中期の方形周溝墓群があり、弥生時代末から古墳時代初頭頃の集落跡を確認しました。大溝と自然流路に挟まれた場所では、弥生時代中期の方形周溝墓が群をなし、古代から中世と思われる水田跡や水田耕作に関わる耕作痕を検出しました。自然流路の西側では、弥生時代中期の土坑墓と思われる土坑群と弥生時代中期と弥生時代後期から古墳時代初頭と思われる方形周溝墓群を確認しました。\n集落として利用された場所は限られますが、自然流路や大溝からは、縄文時代晩期から古墳時代前期にかけての大量の遺物が出土しました。また、木製品や石製品の製作を行っていたことを示す多くの遺物が出土したことから、この遺跡においては多様な生産活動が行われていたことが考えられます。","129","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/9555.html",136.3504001,35.22019141],
    [166,"今渡遺跡","可児市今渡","可茂地区","2011・2013","中世、近世","今渡遺跡は、15世紀から始まる集団墓地としての性格を持ちます。検出した土坑墓は、火葬墓４基と火葬施設１基、土葬墓15基の計20基です。土坑墓の方位は、墓域の東側を画する溝状遺構の方位に一致することから、15世紀には計画的に墓域を設定した後に造墓が展開した可能性が高いです。15世紀には火葬墓が、17世紀には近隣に寺院が創建されて火葬墓から土葬墓へと墓制が変化し、中山道の整備・発展に伴って造墓数が増加していったと考えられます。土坑墓に副えられた土器や金属製品は庶民的なものであると考えられます。同時期に近隣に所在する鋳物師集団に関わる遺跡の金屋遺跡の出土遺物とは、性格が異なっています。","130","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/11440.html",137.0224391,35.26004323],
    [167,"興福地遺跡","大垣市興福地町","西濃地区","2013","古代、中世","奈良時代から中世までの集落跡です。東地区と西地区では、遺構の性格と遺物の出土量が大きく異なり、東地区は生活の場であったのに対して、西地区は区画施設を持つ建物域が南北に広がります。東地区からは、掘立柱建物、井戸、溝など、西地区からは掘立柱塀、柱穴などが確認されました。鎌倉時代初頭の井戸跡からは、埋め井の祭りで使用した道具をまとめて捨てた一括資料が確認されました。これらの道具の中には、斎串として使用したと思われる扇子の骨が３本出土し、内１本の両面には６文字ほどの墨書が残っています。","132","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/12404.html",136.360414,35.23099288],
    [168,"北方京水遺跡","大垣市北方町","西濃地区","2013","鎌倉時代","鎌倉時代を主とする集落跡、水田跡です。集落跡では、溝や土坑が確認され、山茶碗などの遺物が確認されました。水田跡では、区画の異なる２面の水田跡を確認しました。ともに洪水堆積層に覆われており、第２面では、自然地形に沿った水田の区画がされているのに対して、第１面では条里地割に沿った水田の区画がされていることから、洪水によって水田層が砂層で覆われた後に、大がかりな造成工事が行われたようです。第１面からは、約５ｍの幅をもつ東西方向の大畦畔と、坪境に位置する南北方向の大畦畔、条里の区画に分けられた小区画水田を複数確認しました。","133","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/12414.html",136.3635202,35.23478197],
    [169,"随縁寺裏Ｂ地点遺跡","高山市上切町","飛騨地区","2013","縄文時代、弥生時代、古代、中世、近世","古代の集落跡です。７世紀後葉から８世紀前葉頃の竪穴建物群の東側には、砂礫層が堆積した自然流路があります。その上面で建物跡を確認できることから、竪穴建物は自然流路がほぼ埋まり緩斜面になった後に、ほぼ同じ場所に繰り返し建てられていたことが明らかになりました。平安時代前期になると当遺跡の南西側に隣接して、官衙との関わりを示す大規模な集落である野内遺跡が出現します。また、当遺跡周辺では灰釉陶器の生産が開始されます。確認した竪穴建物群は、こうした古代における生産拠点が成立する直前の短期間に営まれた集落跡と考えられます。","134","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/12750.html",137.1350377,36.10034928],
    [170,"梅替古墳","加茂郡坂祝町深萱","可茂地区","2014・2015","縄文時代、古墳時代、中世、近世","梅替古墳は、尾根上に単独で立地する直径約19.5ｍの円墳です。墳丘は２段築成で、外表には葺石を伴い、２段目葺石基底部を埋め殺す特徴をもちます。埋葬主体は全長8.64ｍの無袖式横穴式石室で、羨道から墓道の底面に排水溝を設置します。出土した須恵器から、６世紀前葉の初葬の後に４回の追葬が行われたことが分かり、石室外で複数の大型の甕を用いた葬送儀礼が執り行われた可能性があります。また、古墳の他に縄文時代の煙道付炉穴や中世の墓坑と考えられる土坑を検出し、当地が縄文時代以降、断続的に利用されていることが分かりました。","135","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/12793.html",136.5816177,35.25573433],
    [171,"東野遺跡II","加茂郡坂祝町黒岩・大針","可茂地区","2012・2013","旧石器時代〜近世","縄文時代から近世の集落及び墓域です。縄文時代は出土した土器から中期後葉の竪穴建物を中心とする集落であったことが分かりました。弥生時代中期から古墳時代初頭の竪穴建物や方形周溝墓などの遺構や弥生土器、有孔磨製石鏃、磨製石鏃未製品などの遺物が確認でき、磨製石鏃製作地として機能していた可能性が高まりました。古墳時代前期は、竪穴建物、掘立柱建物、区画溝からなる加茂野台地周辺では比較的規模の大きな集落であったとしたと考えられます。また、竪穴建物から岐阜県内では初の出土例となる三連Ｓ字甕を確認しました。複数の時代を確認したことから、当遺跡は断続しつつこの地を集落域として利用してきたことが分かりました。","136","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/1407.html",136.5857,35.26337856],
    [172,"開拓地Ｂ地点遺跡","高山市高根町留之原字槍柄原","飛騨地区","2015","旧石器時代・縄文時代","開拓地Ｂ地点遺跡は、標高1,000ｍ以上の高所に位置する旧石器時代から縄文時代の遺跡である。今回の調査では遺跡の北西部を調査し、後期旧石器時代のナイフ形石器のほか、縄文時代の石鏃が出土した。","137","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/14565.html",137.313439,35.58506385],
    [173,"番場遺跡","本巣市軽海","岐阜地区","2014","縄文時代・弥生時代・古墳時代・古代・中世・近世","主に縄文時代晩期、弥生時代中期、古墳時代前期、古代以降の遺構を確認しました。特に古墳時代前期の遺構として、竪穴建物や掘立柱建物、柵、方形周溝墓、土坑、溝状遺構などを検出し、多数の土器類とともに石器・石製品、木製品が出土しました。このうち、推定幅約6.0ｍの溝状遺構であるSD17からは、底部に穿孔のあるＳ字状口縁台付甕や線刻が描かれた木製品が出土し、クワ科の花粉が多量に見つかりました。今回の発掘区から北北東に約300ｍ離れた場所には、全長63ｍの前方後円墳である宗慶大塚古墳（県史跡）が位置します。今回の発掘区は宗慶大塚古墳と同一の微高地の縁辺部にあり、検出した遺構の多くは宗慶大塚古墳とほぼ同時期であることから、当時はこの付近一帯に集落域や墓域が展開していた可能性があります。","138","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/14491.html",136.3945704,35.25405796],
    [174,"稲荷遺跡","揖斐郡大野町六里","西濃地区","2014","古墳時代、古代、中世","当遺跡では、古墳時代から平安時代前期の集落跡が見つかりました。検出した遺構は、発掘区中央の溝を境に、18軒の竪穴建物が密集する発掘区東部の居住域と、居住域よりやや低くなる西部の水田域に分けられ、東部の竪穴建物は１軒を除き奈良時代後半から平安時代前半に属しています。奈良時代後半に竪穴建物が急激に増え、平安時代前半に廃絶した後は、全域が耕地化して今日に至ったと考えられます。また、見つかった竪穴建物や溝状遺構の長軸方位が、北北東―南南西の軸に傾いていることから、周辺に条里地割が導入される以前の集落であり、大野郡条里の導入時期は平安時代前半以降と考えられます。","139","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/15747.html",136.3757675,35.27428061],
    [175,"六里遺跡","揖斐郡大野町六里・小衣斐","西濃地区","2014","縄文時代、古墳時代、古代、中世、近世","当遺跡では、縄文時代晩期から近世にかけての遺構を確認しました。第１調査面では、安土桃山時代以降の畦畔に囲まれた水田跡や坪境溝等を確認しました。坪境溝は、横木や杭で改修されながら、昭和47年度の圃場整備前まで使用されていました。第２調査面では、発掘区西部の微高地に古墳時代後期の竪穴建物７軒や掘立柱建物３棟を確認しました。発掘区東部の低地には溝状遺構が多数設置され、古墳時代前期以降水田が存在したと考えられます。第３調査面では、縄文時代晩期の土器埋設遺構などを確認しました。土器埋設遺構は11基あり、当時の状況のまま埋没していたため、縄文時代晩期の様相を伝える貴重な資料となりました。","139","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/15745.html",136.3745234,35.27425827],
    [176,"大垣城跡・城下町","大垣市丸の内","西濃地区","2016","中世、近世","当遺跡では、中世から近代にかけての遺構を確認しました。第１調査面では、近代の戸田家別邸と大垣大神宮を区画する大溝と土坑を確認しました。大溝の北面には石積が残存し、戦後に埋められたと考えられます。第２調査面では、中世から近代の遺構を確認しました。中世後期の溝と土坑を確認しましたが、古瀬戸前期の壺・瓶類が少量出土したことから、発掘区周辺に中世墓が存在した可能性があります。近世の遺構は少ないものの、擂鉢の年代から、ほぼ全時期にわたって土地の利用がなされていたといえます。なお、第２調査面でも近代の溝が見つかり、戸田家別邸周辺の変遷を考える上で重要な手がかりを得ることができました。","140","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/15778.html",136.365106,35.21441677],
    [177,"政田仙道上遺跡","本巣市政田","岐阜地区","2015・2017","弥生時代・古墳時代・古代・中世・近世","今回の発掘調査では主に中世後期の遺構を確認しました。溝によって仕切られた区画の内側で、掘立柱建物、柵、柱穴、井戸、土坑を検出し、東西２箇所の屋敷地があったと考えられます。また、明治時代の字絵図には、今回検出した区画溝との関連が指摘できる地割が発掘区周辺に存在し、中世の地割が遺存していたと考えられます。出土遺物は中世の土器・陶磁器類が大半を占めますが、中でも土師器皿の比率が高いことが特筆されます。瀬戸美濃産陶器は古瀬戸・大窯が中心で、時代別の出土量から、当該地では14世紀から15世紀にかけて人々が活動し、16世紀に衰退していったと考えられます。","141","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/17946.html",136.3902375,35.26057776],
    [178,"小洞古墳群","関市広見","美濃地区","2015","古墳時代","10基から成る古墳群のうち７基の古墳の調査を実施し、４基については埋葬施設を確認しました。横穴式石室を有しており、２・４号古墳は両袖式、小型の９・10号古墳は２・４号古墳と同じ造り方で構築されています。石室内からは、須恵器や刀子などが出土しました。２・４号古墳は６世紀末から７世紀初頭、９・10号古墳は７世紀初頭から中ごろにかけて築造された古墳であると考えられます。","142","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/17905.html",136.5157845,35.30198784],
    [179,"洞第２古墳群","岐阜市洞","岐阜地区","2015・2016","縄文時代、古墳時代、古代、中世","洞第２古墳群では、古墳時代中期から後期の古墳を確認した。古墳時代中期の古墳からは、県内では出土事例の少ない提砥が出土した。また、古墳時代後期の古墳は、斜面に連なるように築造され、その変遷を辿ることができる。古墳以外には、縄文時代早期、古墳時代前期、古代、中世の遺構を確認し、断続的に土地利用がなされていたことがわかった。","143","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/20670.html",136.4319653,35.28365852],
    [180,"御望Ａ遺跡","岐阜市御望","岐阜地区","2016","縄文時代〜近世","縄文時代前期、縄文時代中期、弥生時代後期〜古墳時代前期、古墳時代後期、古代の大きく分けて５時期の建物跡を確認し、縄文時代前期〜古代に断続して集落跡として土地利用されていたことが判明しました。中世以降は遺構数及び遺物数が極端に減少し、近代にかけては耕作地としての土地利用に変化したことが想定されます。","144","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/20683.html",136.42065,35.28308498],
    [181,"六里遺跡２","揖斐郡大野町大字麻生・小衣斐","西濃地区","2017・2018","縄文時代〜近世","六里遺跡は縄文時代晩期から近世までの複合遺跡である。今回の発掘調査では主に古墳時代後期、古代、中世以降の遺構を確認した。６世紀末から７世紀前葉では竪穴建物・掘立柱建物等を確認し、発掘区のうち北西部で竪穴建物の建て替えが顕著である。７世紀中葉には集落域内に東西方向の溝状遺構が設置されて、集落域は南北に分けられ、８世紀初頭までには溝状遺構は埋没したと考えられる。 古代では、竪穴建物、耕作に伴う溝群、公的施設に関連する可能性がある掘立柱建物１棟を確認した。また中世以降では、復元条里における十一条と十二条の条境溝や耕作に伴う土坑列を確認した。","145","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/15745.html",136.3737129,35.27431933],
    [182,"堅田遺跡","垂井町平尾","西濃地区","2014・2015","縄文時代・古墳時代・古代・中世・近世","堅田遺跡・美濃国分尼寺東遺跡は隣接し、古墳時代から古代、中世が中心時期となる遺跡です。２年にわたる発掘調査では特に堅田遺跡において多くの遺構・遺物を確認しました。やや大型の柱穴をもつ掘立柱建物３棟、壁際溝、柱穴を伴う竪穴建物２棟を検出しましたが、これらの建物は古代のものであり、当該時期に当遺跡周辺に展開した集落に属するものと考えられます。柵の柱穴や土坑、溝などからは多くの土器類が出土し、中には火舎香炉、転用硯、墨書土器、水瓶といった寺院に関係する遺物を確認しました。また、鞴の羽口や鉄滓といった鍛冶関連遺物も出土し、当遺跡周辺での生産活動の一端を想定できます。一方で、当該地に８世紀には成立していたと思われる美濃国分寺及び美濃国分尼寺と直接関連する遺構・遺物を確認することはできず、両寺の隆盛・衰退と当遺跡の消長との関連は不明です。","146","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/20682.html",136.3247748,35.22587651],
    [183,"美濃国分尼寺東遺跡","垂井町平尾","西濃地区","2014","縄文時代・古墳時代・古代・中世・近世","堅田遺跡・美濃国分尼寺東遺跡は隣接し、古墳時代から古代、中世が中心時期となる遺跡です。２年にわたる発掘調査では特に堅田遺跡において多くの遺構・遺物を確認しました。やや大型の柱穴をもつ掘立柱建物３棟、壁際溝、柱穴を伴う竪穴建物２棟を検出しましたが、これらの建物は古代のものであり、当該時期に当遺跡周辺に展開した集落に属するものと考えられます。柵の柱穴や土坑、溝などからは多くの土器類が出土し、中には火舎香炉、転用硯、墨書土器、水瓶といった寺院に関係する遺物を確認しました。また、鞴の羽口や鉄滓といった鍛冶関連遺物も出土し、当遺跡周辺での生産活動の一端を想定できます。一方で、当該地に８世紀には成立していたと思われる美濃国分寺及び美濃国分尼寺と直接関連する遺構・遺物を確認することはできず、両寺の隆盛・衰退と当遺跡の消長との関連は不明です。","146","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/20682.html",136.3229217,35.2300805],
    [184,"正傳寺跡","本巣市上保","岐阜地区","2016","近世・近代","正傳寺は18世紀後半に創建された寺院です。1967年に発生した土砂災害により廃絶しました。発掘調査では、広縁の巡る本堂に庫裡が取り付く礎石建物1棟を確認しました。","152","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/26237.html",136.4109934,35.2802976],
    [185,"栗原九十九坊跡","不破郡垂井町大字栗原中尾山","西濃地区","2018","古代・中世・近世","栗原九十九坊跡は栗原山の山頂付近から山麓に立地する寺院跡です。発掘調査では、中世から近世の遺構を確認し、中近世陶磁器類や灰釉陶器が出土しました。地形観察の結果から栗原九十九坊跡は山頂付近に上寺が２か寺あり、下寺が山麓へと広がっていたと考えられます。これらのことから当該地では古代から近世にかけて大規模な寺院が展開していた可能性があります。","147","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/26235.html",136.3215919,35.20042917],
    [186,"北方京水遺跡","大垣市北方町","西濃地区","2017","古代・中世","北方京水遺跡は古代から中世にかけての集落跡です。古代から中世にかけての掘立柱建物や井戸等を確認したことから居住域として利用されていたことが分かりました。また、居住域を区画する溝も複数確認することができ、中世後期には発掘区内に４つの屋敷が展開していたことも分かりました。古代から中世の特殊な遺物が見つかりました。古代のものとしては、風字硯や円形硯等があり、遺跡周辺に寺院や官衙といった公的な施設が存在した可能性があります。中世のものとしては、白磁四耳壺、風炉、木簡が出土しており、一定以上の階層の人物が居住していた可能性があります。","148","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/12414.html",136.3628089,35.23346741],
    [187,"高屋遺跡","瑞浪市土岐町","東濃地区","2018","縄文時代・古墳時代・古代・中世","高屋遺跡は縄文時代、古墳時代後半から中世までの複合遺跡です。7世紀後半から8世紀後半の遺構として掘立柱建物、柱穴、溝を、９世紀頃の遺構として区画溝を検出しました。遺物は土師器や須恵器とともに木製品、土製品が出土しました。以上のことから、古代前半は居住域として土地利用されていたと考えられます。","149","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/26152.html",137.1627636,35.23335328],
    [188,"国分寺遺跡","大垣市青野町","西濃地区","2016・2017","縄文時代・弥生時代・古代・中世・近世","国分寺遺跡は史跡美濃国分寺跡及びその周辺に広がる、古代を中心とした遺跡です。掘立柱建物1棟、柵6列が見つかりました。これらの多くは古代のものと考えられ、美濃国分寺の活動と何らかの関係があると思われます。遺物としては土器、瓦などの土製品、木製品が見つかりました。須恵器や灰釉陶器には墨書があるものが認められ、この他に律令的な祭祀に用いられたと考えられる美濃須衛窯産の陶馬、斎串が見つかりました。","150","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/26172.html",136.3304259,35.22591769],
    [189,"上保本郷遺跡","本巣市上保","岐阜地区","2015~2017","弥生時代・古墳時代・古代・中世・近世","上保本郷遺跡は古墳時代から中世の複合遺跡です。時期によって居住域の位置や範囲は変化し、古代は発掘区北東部と南西部の一部で限定的でしたが、中世前半には広範囲に居住域が成立し、条里地割や用水路も整備されたと考えられます。中世後半は鍛冶や漆の工房が営まれていた可能性があり、また、区画溝から土師器皿の一括廃棄されていたことなどから、高い階層の居住域であったと考えられます。","151","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/70698.html",136.4059963,35.27551758],
    [190,"大屋敷遺跡","美濃市大字大矢田","美濃地区","2019","縄文時代","大屋敷遺跡では、縄文時代前期から中期と考えられる土器と打欠石錘が見つかりました。周辺の遺跡調査の成果を含めて、当該地周辺で縄文時代草創期から中期にかけて断続的に土地利用されていたことが分かりました。","153","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/26181.html",136.5241436,35.31559854],
    [191,"上切寺尾古墳群・日焼遺跡","高山市上切町","飛騨地区","2015・2016","縄文時代・弥生時代・古墳時代・古代・中世","上切寺尾古墳群は弥生時代後期から古墳時代初頭の墳墓群です。多くの墳墓が略方形に周溝を巡らせ、主体部が1基となります。北陸地方や濃尾平野の影響を受けた土器が出土しており、墳墓群もこうした影響のもと造営された可能性が考えられます。日焼遺跡は、縄文時代及び古代を中心とする遺跡です。縄文時代早期の煙道付炉穴、縄文時代中期の竪穴建物、古代の竪穴建物、掘立柱建物、礎石建物等を確認しました。このうち、古代の礎石建物では、鏡が埋納されており、螺髪や多口瓶、鉄鉢形土器等が見つかりました。","154","詳細#http://www.pref.gifu.lg.jp/page/27475.html",137.1358319,36.10104134],
    [192,"土岐上平遺跡","瑞浪市土岐町","東濃地区","2019","古墳時代・古代・中世・近世","土岐上平遺跡は、古墳時代から近世の複合遺跡です。古墳時代初頭と古墳時代後期の竪穴建物を確認しました。そのうち、古墳時代初頭の竪穴建物の1軒からは土師器がまとまって出土し、尾張地方の影響を受けた赤彩を施したパレス壺や高坏の他、台付甕や平底壺などがあります。東濃地方でこの時代の発掘調査例は少なく、当地域において当時使われていた土器の組み合わせを知る上で重要な発見例となりました。","156","http://www.pref.gifu.lg.jp/page/139469.html",137.1648247,35.23350397],
    [193,"随縁寺裏Ｂ地点遺跡","高山市上切町","飛騨地区","2015","縄文時代・古墳時代・古代・中世","随縁寺裏裏Ｂ地点遺跡では、鎌倉時代から14世紀後葉を下限とする室町時代の間の掘立柱建物2棟が見つかりました。この他に平安時代以前に埋没したと考えられる自然流路2条が確認され、土師器や須恵器、灰釉陶器など数多くの遺物が見つかりました。掘立柱建物が自然流路の西側に位置することやそれぞれ遺構の時期から自然流路が埋没した後に掘立柱建物が設置されたと考えられます。","155","http://www.pref.gifu.lg.jo/141495.html",137.1352912,36.10053871]
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